『魔女がいっぱい』

TOHOシネマズ上野、スクリーン4入口脇に掲示された『魔女がいっぱい』チラシ。
TOHOシネマズ上野、スクリーン4入口脇に掲示された『魔女がいっぱい』チラシ。

原題:“The Witches” / 原作:ロアルド・ダール / 監督:ロバート・ゼメキス / 脚本:ロバート・ゼメキス、ケニヤ・バリス、ギレルモ・デル・トロ / 製作:ロバート・ゼメキス、ジャック・ラプケ、アルフォンソ・キュアロン、ルーク・ケリー / 撮影監督:ドン・バージェス / プロダクション・デザイナー:ゲイリー・フリーマン / 編集:ライアン・チャン、ジェレマイア・オドリスコル / 衣装:ジョアンナ・ジョンストン / 視覚効果監修:ケヴィン・ベイリー / 音楽:アラン・シルヴェストリ / 出演:アン・ハサウェイ、オクタヴィア・スペンサー、スタンリー・トゥッチ、クリスティン・チェノウェス、ジャジール・ブルーノ、コーディ=レイ・イースティック、クリス・ロック / 配給:Warner Bros.
2020年アメリカ、メキシコ、イギリス合作 / 上映時間:1時間44分 / 日本語字幕:野口尊子
2020年12月4日日本公開
公式サイト : http://www.majo-movie.jp/
TOHOシネマズ上野にて初見(2020/12/8)


[粗筋]
 1968年のクリスマス、少年(ジャジール・ブルーノ)は交通事故で両親を失った。しばらくは絶望に打ちひしがれていたが、彼を引き取った母方のおばあちゃん(オクタヴィア・スペンサー)の励ましもあって、次第に明るさを取り戻していく。
 ある日、おばあちゃんと買い物に出かけた少年は、不気味な女性に声をかけられる。耳障りな声でお菓子をあげる、と囁く女に、少年がおののき手を出しかねている所へ、おばあちゃんが現れ、その隙に女は消えてしまった。
 おばあちゃん曰く、それは魔女なのだという。魔女はこの世界のあちこちに身を潜めており、大嫌いな子供たちを別の生き物に変えて踏み潰すことに喜びを感じるという。他でもない、おばあちゃんが幼い頃、おばあちゃんの目の前で、仲良しだったアリスが鶏に姿を変えられてしまったのだそうだ。
 魔女は、いちど目をつけた子供を逃がさない。おばあちゃんは少年を魔手から守るため、いったん家を離れ、いとこが務めるホテルに宿泊して身を潜めることにした。
 だが、運命は皮肉な巡り合わせを用意していた。少年とおばあちゃんが投宿したまさにその日、ホテルのホールで魔女たちの会合が催されるところだったのだ。おばあちゃんに買ってもらったペットのネズミの訓練をするため、ホールに潜入していた少年は、魔女たちの親玉・大魔女(アン・ハサウェイ)のあまりにも壮大で邪悪な計画を聞いてしまう――


[感想]
“子供騙し”という表現がある。子供を欺くための見え透いた作り事、というくらいの意味だが、ことフィクションについて“子供騙し”と呼ぶとき、出来のいい“子供騙し”と出来るの悪い“子供騙し”の両方がある、と私は考える。本篇など、前者の好例と言えるのではなかろうか。
 如何にも子供をターゲットにした平明な語り口と世界観になっている。主人公は少年、そして戦う相手は解り易いくらいに邪悪な魔女。粗筋の直後に深刻なハンデを背負いながらも、知恵と勇気を駆使して、少年は魔女に立ち向かっていく。その過程で披露するアイディアや冒険も、極めてシンプルで、特殊な状況ではあるが実感はしやすい。
 しかし、展開やそこここで用いられる趣向、その結果、いずれも決して突飛なものではない。発想にも成り行きにも概ねきっかけがあり、その結果も必然的なもので受け入れやすい。きちんとプロット段階からよく練られているのが解る、こういう作品こそ、いい“子供騙し”と言っていいと思う。
 そのうえで本篇は、節度を保ちながら見事に人種の問題に踏み込んでいる。たとえば本篇の中心的な舞台となるホテルは、明らかに白人の富裕層を対象とした経営をしていることが窺える。だからお仕着せの従業員はほぼ黒人だし、少年がおばあちゃんと一緒にチェックインした際は、どこか不自然な態度を示す。中盤以降、ある変化が起きた子供たちに対する、魔法を知らない大人たちの反応などは、ファンタジーであればこそ生々しい差別意識が垣間見える。
 だが、本篇の主人公たちはそれを受け入れた上で乗り越えていく。少年よりも遥かに多くの経験をしてきたはずのおばあちゃんは、ホテルの支配人や客からの奇異の眼差しを恐らくは察しながらも泰然と振る舞う。そして、そんなおばあちゃんに影響された少年は、絶望的な状況にも拘わらず、それをポジティヴに受け入れ、そのうえで為すべきことを実行しようとする。本篇に貫かれたこの逞しいスタンスは、観客に少なからず影響を及ぼすはずだ。
 こうしたマイノリティへの眼差しには、脚本にクレジットされたギレルモ・デル・トロの作風が滲んでいるように思う。自身の監督作でしばしば社会的弱者、虐げられたひとびとに寄り添い、異質な存在に愛情を注いだ描き方をする。まだ一部では露骨な差別が蔓延っていた1960年代を舞台に、黒人の少年を主人公にしたことや、そんな彼らに訪れる変化にもこのデル・トロの手癖がちらつくが、もっとも露骨に現れているのは、倒されるべき“邪悪”たる魔女たちの描写だろう。
 他の作品に登場する魔女と比べると、本篇の魔女はだいぶ特徴が際立っている。外見も性格も欠点だらけで、それをウイッグや手袋で隠し上流階級の女性を装っている、という設定は、“身近に潜む脅威”という印象をもたらしつつ見分け方をシンプルに見せるためでもあるのだろうが、その必死さや世間とズレた振る舞いに妙な愛嬌もある。この作品では最後まで改悛することのない、倒さされるべき存在としているが、その描写には作り手達の消しがたい愛着が垣間見える。
 邦題が『魔女がいっぱい』、原題でも“The Witches”と複数形になっている割に、スポットライトを浴びる魔女はアン・ハサウェイ演じる《大魔女》だけ、というのがもったいなく思えるが、彼女ひとりで充分すぎるほどその魅力を表現しきっているのもまた確かだ。ねっとりとしたクセのある喋り方に、子供の気配を感じて不気味にその出所を探るさま、直接対峙するときの迫力などなど、この作品だからこその“魔女”を嬉々として演じていて、彼女を観ているだけで楽しくなってくる。それでいて、やっていること自体は邪悪そのものだから、倒されっぷりも爽快なのだ。おとぎ話に登場する悪役の理想的な体現っぷりは、間違いなく賞賛に値する。
 締め括りが少々意外だったのだが、しかしこうした本篇のスタンスからすればもっとも筋の通った着地と言える。パンフレットによると、かつて同じ原作が映画化された際、まだ存命だった作者は結末を改竄されたことに憤ったというが、本篇の結末はそれよりも原作に沿ったものになっているらしい。クリーチャーへの愛を作品に織り込むギレルモ・デル・トロがスタッフに加わったのも、そうした原作本来のテーマがあったからこそなのだろう。それを、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズや『ポーラー・エクスプレス』など、年齢を超えてワクワクを刺激する作品を撮ることに長けたロバート・ゼメキス監督が、作品や主題に敬意をもってかたちにした。
 全篇に漲る、そんな芯の通った優しさが、この作品をとても快いものにしているのだろう。


関連作品:
チャーリーとチョコレート工場
バック・トゥ・ザ・フューチャー』/『バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2』/『バック・トゥ・ザ・フューチャーPART3』/『フォレスト・ガンプ/一期一会』/『ベオウルフ/呪われし勇者』/『フライト』/『ザ・ウォーク』/『マリアンヌ』/『デビルズ・バックボーン』/『パンズ・ラビリンス』/『クリムゾン・ピーク』/『シェイプ・オブ・ウォーター
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