『SNS 少女たちの10日間』

新宿武蔵野館、エレベーターホールに展示された『SNS 少女たちの10日間』ポスター。
新宿武蔵野館、エレベーターホールに展示された『SNS 少女たちの10日間』ポスター。

原題:“V Siti” / 監督:バーラ・ハルポヴァー、ヴィート・クルサーク / 原案&編集:ヴィート・クルサーク / 製作:ヴィート・クルサーク、フィリップ・レムンダ / 製作総指揮:パヴラ・クリメショヴァー / 撮影監督:アダム・クルリシュ / プロダクション:アンナ・ポラーチュコヴァー / 美術:ヤン・ヴルチェク / メイク:バルボラ・ポトゥジュニーコヴァー / デジタル処理:Plaftik / 写真撮影:ミラン・ラロシュ / サウンド:アダム・ブラーハ / 音楽:ピョーニ / 出演:テレザ・チェジュカー、アネジュカ・ピタルトヴァー、サビナ・ドロウハー / 配給:HARK
2020年チェコ作品 / 上映時間:1時間44分 / 日本語字幕:小山美穂 / 字幕監修:牧野ズザナ / R15+
2021年4月23日日本公開
公式サイト : >http://www.hark3.com/sns-10days/
新宿武蔵野館にて初見(2021/4/24)


[粗筋]
 プロジェクトはまず、12歳の少女を演じる女優たちのオーディションから始まった。実年齢は成人だが、12歳に見える容姿の女性達のなかから選ばれたのは、テレザ・チェジュカー、アネジュカ・ピタルトヴァー、サビナ・ドロウハーの3人。
 出演者が決まると、スタジオに3つの子供部屋のセットが建てられた。それぞれの部屋には、3人が実際に12歳の頃に過ごしていた部屋から本や雑貨を運び込んである。3人はみな、実際とは異なるプロフィールが与えられるが、嘘に説得力を持たせるために、本物の思い出を採り入れたのだ。
 そして、“実験”が始まった。3人はみな違う名前と、12歳の少女としてのプロフィールを作り、それぞれのアカウントをSNSに作成した。
 反応はすぐに現れた。アカウントの公開から僅か5分で、10数人の成人男性からのメッセージが届いたのだ。女優たちはさっそくメッセージのやり取りを開始する。
《自分からは連絡しない》《最初に12歳であることを強調する》《誘惑や挑発はしない》《露骨な性的指示は断る》《何度も頼まれたときのみ裸の写真を送る》《こちらから会う約束を持ちかけない》《撮影中は現場にいる精神科医や弁護士などに相談する》――これら7つのルールに従い、キャストとスタッフはネットの闇にいる狼たちと対峙する――


[感想]
 いささか不謹慎とも思うが、こういう種類の実験性は、非常に好きだ。
 もちろん、興味本位でやっていいことではない。きちんと参加者に危険が及ばぬよう、善良なひとびとに不要な影響を及ぼさぬよう留意して実行するべきだ。換言すれば、それをクリア出来るなら、ある程度の批判を覚悟のうえで挑む価値のある実験だ、と思う。
 本篇はその点、極めて堅実で真摯だ。主人公となる“少女”たちは当然のように、既に判断力を備え、必要があれば自身の身を守る知識も責任もある成人が扮する。彼女たちにもきちんと企画の趣旨を伝え、理解したうえで参加を求めている。
 だからこそ、なのだろう。オーディションに参加した女性達が、自身の実際に受けた性的被害について語る場面が挿入される。参加者の2/3が何らかの被害を受けている、という事実はやはり衝撃的だ。そもそもオーディションに集められたのは幼く見られる特徴のある女性ばかり、ある程度はスタッフによる事前リサーチがあったことも想定すると、そもそも統計のサンプルとしてはかなり偏りがあるために、この比率を一般化は出来まいが、それでも観ていて言葉を失う光景である。
 設営した子供部屋のセットに、演者本人の想い出の品を混ぜてそれぞれがキャラクターを演じやすいようにする一方、様々なトラブルが想定される実験であるため、予め細かなルールを設けたり、と周到な準備をしたうえで始まった実験の、あまりにも速い展開にも唖然とさせられる。アカウントを解説するなり、あっという間に多くの成人男性からメッセージが届き、ビデオ通話を始めるとすぐに卑猥なアプローチを仕掛けてくる。こういうことをしている大人が無数にいる、ということを単純明快に証明する状況は、観ていて奇妙な感情を催させる。恐怖もあるが、これほど簡単に“罠”にハマるひとびとがいっそ滑稽でもあるのだ。
 回線越しに自慰する姿を見せつけたり裸の写真を執拗に要求したり、挙句は脅迫してきたり、と接触してきた男たちの醜悪な振る舞いが次々に連ねられていく。サポートがあるとは言え、カメラ越しに直接向き合わねばならない女優たちの心労が察せられる。回線が切れた途端に愚痴がこぼれてきたり、呼び出し音に合わせてボイスパーカッションをしてみたり、といった仕草が笑みを誘うと同時に、そうでもしないとストレスが蓄積してしまう精神状態も察せられる。援助もなくこういう男たちに遭遇してしまう本当の子供たちが、時として自ら命を絶つケースがあるのも頷ける。
 興味深いのは、こうしたケースの加害者のなかに、いわゆる小児性愛者の割合は決して多くない、という専門家のコメントだ。にわかに信じがたいようにも思えるが、しかし本篇を観ていると納得がいく。すべてではないにせよ、劇中で引用される加害者たちの言動は、精神的に幼い相手を、お互いに手出しの出来ない場所から操ろうとする支配欲がまざまざと窺えるのだ。子供たちの好奇心につけこみ、体験したことのない状況に誘導し、翻弄する。子供たちの側にしても、興味本位からSNSに登録し、大人たちと卑猥なやり取りをしたことを、親に知られたいとは考えない。相談する相手のいない子供たちは容易く術中に嵌まり、脅迫や呼び出しにも応じてしまう。そうして泥沼に引きずり込まれてしまう。
 多数のサンプルを記録したことで、そうした構造を本篇は解りやすく暴き立てる。しかし同時に、これが解決の困難な問題であることも指摘している。
 支配欲を満たそうとする人間は常に存在する。そういうひとびとにとって、精神的に未熟な子供たちは格好の標的だ。その一方で、子供たちは経験が乏しいからこそ無防備にネットワークの世界に飛び込み、好奇心を満たそうとする。どんな子供でも当たり前のように育まれる好奇心が、罠へと誘い込むのだ。
 この構図は、たとえ時代が移ろい、コミュニケーションの形が変わっても、幾度も現れる危険を孕む。新たなシステムが浸透するたびに、どこかで考慮すべき根深い問題であることを、本篇は仄めかしている。
 考えると暗澹とするような内容だが、本篇はそれでいてトーンは暗くない。周到に準備した誠実なスタンスもさることながら、加害者たちの醜悪さを浮き彫りにする演出の奏功するところが大きい。一対一で子供相手にしているなら虐待になるが、その場面だけを切り出してテンポよく羅列した本篇の映像が強調するのは醜悪さだ。また、本篇製作時点では個人を特定されていない加害者たちの顔に、モザイクをかけて映しているのだが、表情は解るよう、目と口許だけ切り抜きのように残している。この奇妙な表現もまた、彼らの不気味さと共に、滑稽な印象をもたらしている。もし加害者の素養があるひとが本篇を観たなら、少し冷静になるか、羞恥心に見舞われそうな演出だ。そこまで狙っていたのではないかも知れないが、本篇の作りは防犯面での効果も見込めそうだ。
 加害者の姿を不気味だが道化じみたものに誇張した表現もさりながら、特に痛快なのは終盤である。このくだりは恐らくスタッフももっとも繊細さを要求された、危険な実験ではあったが、こうした児童虐待の実態を暴くと共に、少しだけ爽快な顛末を用意する。たぶんこれも、そうしようと目論んでいたわけではなく、自然とそういう衝動に駆られたのだろう。一連の実験を見届けたことで、それが理解できるからこその痛快さだ。
 決して安易にやっていい実験ではない。たとえ参加者が成人で、配慮に配慮を重ねていたとしても、囮捜査じみた方法論に批判の声が出ても不思議はない。ただ、繰り返すことが出来ないが故に、本篇で試みた実験は貴重であり有益だ。自分の家族や親しいひとびとの子供たちに新たな犠牲を出したくないひとにとっても、そういう心当たりのいっさいないひとにとっても、一考する材料をもたらす、意義のある作品である。


関連作品:
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