『亜人ちゃんは語りたい』は優秀なSFです。

亜人ちゃんは語りたい(6) (ヤンマガKCスペシャル)

亜人ちゃんは語りたい(6) (ヤンマガKCスペシャル)

 このあいだ発売された『亜人ちゃんは語りたい』第6巻を読んで唸っております。

 個人的にこの作品でまず注目していたのは、“亜人”を一種のハンディキャップと捉え、どのように接していくのか、という観点からの誠実さで、その意味では今回も見事に芯が通っている。第6巻の後半では特に、サキュバスとしても影響力が強すぎる早紀絵先生にクローズアップし、それでもあえて教職を選んだ彼女の苦悩と、だからこそ得られる喜びに焦点を当てている。早紀絵先生に限らず、他のキャラクターの個性や悩みもしっかりと汲み取っているからこその終盤の展開は実にグッと来ます。アニメ版でクライマックスに使われていた高橋先生のエピソードに匹敵するくらい印象的でした。

 しかし今回もうひとつ、改めて感じたのは、この作品がSFとして読んでも優秀だ、という点。

 それは第5巻から引っ張っていた座敷童子のエピソードが象徴してます。どうして陽子にだけ見えるのか、という点を、京子のエピソードにも繋がるロジックで解き明かすくだりは、“現実にこうした人々が実在するならば”というifとしてとても説得力がある。別位相に存在する座敷童子を知覚できる能力者、という考え方は基本、オカルトや怪談が好きな私としては、とても興味深い。

 しかしいま、ひとつとても気になっていることがある。

 別位相にいる座敷童子が知覚できる、ということは、同様に別位相にあるはずのデュラハン=京子首は、能力者の目からはどんな風に見えるのか。もし見えるのだとしたら、そのヴィジュアルって“ろくろ首”そのものではないんだろうか。

 ただまあここは、座敷童子の存在する位相と、デュラハンの首がある位相がまた異なっているのだ、と解釈すれば、能力者にとってもやはり京子の首にあたる場所には“空間の揺らぎ”の象徴である炎のようなものが見えるだけ、で片づく話ではあります。

 とまれ、この作者ならこの辺にも何かしら工夫を凝らしてくれそうなので、続巻を首を長くして待つこととします。