『沈黙−サイレンス−(2016)』

TOHOシネマズ日本橋が入っているコレド室町2入口に掲示されたポスター。

原題:“Silence” / 原作:遠藤周作(新潮文庫・刊) / 監督:マーティン・スコセッシ / 脚本:ジェイ・コックス&マーティン・スコセッシ / 製作:マーティン・スコセッシ、エマ・ティリンジャー・コスコフ、ランドール・エメット、バーバラ・デ・フィーナ、ガストン・パブロヴィッチ、アーウィン・ウィンクラー、ヴィットリオ・チェッキ・ゴーリ / 製作総指揮:デイル・A・ブラウン、マシュー・J・マレク、マニュ・ガルキ、ケン・カオ、ダン・カオ、ニールス・ジュール、チャド・A・ヴェルディ、ジャンニ・ヌナリ、レン・ブラヴァトニック、アヴィヴ・ギラディ、ローレンス・ベンダー、、スチュアート・フォード / 撮影監督:ロドリゴ・プリエト / 衣裳&プロダクション・デザイナー:ダンテ・フェレッティ / 編集:セルマ・スクーンメイカー / キャスティング:エレン・ルイス / 作曲:キャスリン・クルーゲ、キム・アレン・クルーゲ / 音楽監修:ランドール・ポスター、ジョン・ジェイファー / 音楽総監修:ロビー・ロバートソン / 出演:アンドリュー・ガーフィールドアダム・ドライヴァーリーアム・ニーソン窪塚洋介浅野忠信イッセー尾形塚本晋也小松菜奈加瀬亮笈田ヨシキアラン・ハインズ / AIフィルム製作 / 配給:KADOKAWA

2016年アメリカ作品 / 上映時間:2時間42分 / 日本語字幕:松浦美奈 / 字幕監修:川村信三 / PG12

2017年1月21日日本公開

公式サイト : http://chinmoku.jp/

TOHOシネマズ日本橋にて初見(2017/1/21)



[粗筋]

 1640年。イエズス会に、信じがたい報せが届けられた。かねてより日本で宣教活動を続けていたクリストヴァン・フェレイラ神父(リーアム・ニーソン)が主の教えを棄て、日本人として暮らしている、というのだ。

 フェレイラ神父の導きを受け司祭となったセバスチャン・ロドリゴ神父(アンドリュー・ガーフィールド)にとっても受け入れられない話だった。きっと何かがあったに違いない――ロドリゴ神父は同じようにフェレイラ神父の導きを受けたフランシス・ガルペ神父(アダム・ドライヴァー)と共に、日本への潜入を決意した。

 マカオにて、漂着していた日本人・キチジロー(窪塚洋介)という道案内を得たロドリゴ神父とガルペ神父は、中国の船で長崎近海まで接近し、どうにか日本上陸に成功する。

 そこはトモギ村という集落にほど近い海岸であった。先の禁教令以降、秘蹟をもたらす司祭を失っていた切支丹の村人たちはロドリゴ神父とガルペ神父の来訪に歓喜し、喜んで彼らを匿う。

 ふたりの神父は、村人たちの施しを受け、役人の眼を盗み夜ごとにこっそりとミサを行い、告白に耳を傾けた。だが、肝心のフェレイラ神父の消息を知る者は村には一人としおらず、ふたりは日に日に焦りを募らせる。

 ある日、ふたりの存在にたまたま勘づいた五島の人々が、やはり隠れて信仰を続ける自分たちの村にも来てほしい、と懇願する。トモギ村で村人の信仰を支えていた“じいさま”であるイチゾウ(笈田ヨシ)らは反対するが、救いを求められて拒むことは出来ない、と訴え、協議の結果、ロドリゴ神父ひとりで五島に赴くことになった。

 他の集落との交流もなく、独自に信仰を追い求める人々の姿に一抹の不安を抱きながらも、五島の人々との交流を済ませてトモギ村に戻ったロドリゴ神父だったが、それから間もなく、怖れていた事態に直面する。

 奉行が、隠れ切支丹を炙り出すべく、村に現れたのだ――



[感想]

 ハリウッドの監督が日本を舞台とした作品を撮ることもいまはそれほど珍しくなくなってきた。未だに珍妙な日本観に縛られた作品も目につくが、近年は理解も進み、日本人の目から見ても納得のいく描写をしている作品も多くなっている。

 しかし、本篇のクオリティはそんな中にあっても格段に高い。日本で撮られた歴史ものと比較しても遜色がない、と言い切れるレベルだ。撮影を台湾で実施しているため、植生に幾分違和感はあるが、変に小綺麗にしていない村落の作りや村人の衣裳、対照的に如何にも江戸期の盛り場を思わせる平戸の光景とのメリハリなど、きちんと考慮した美術に、ほぼ日本人で構成された主要キャストたちが見事に溶け込んでいる。

 そうして克明に構築された江戸初期の長崎を舞台に描かれるのは、極めて重厚な“信仰”のドラマだ。

 尊敬され、命の危険も承知の上で布教に赴いた神父が何故、教えを棄てたのか? という謎を前庭に、物語は展開していく。辿り着いた日本において、息を潜めながら一途に“ゼウス”を崇める村人の姿に力づけられながらも、役人の詮議によって炙り出され処罰する信徒の姿に胸を痛める。

 それにしても本篇における切支丹たちに対する取り調べの手段、拷問の方法は非常に残酷で生々しい。監督はじめ主要スタッフが異国のひとびとであっても、そもそもの原作が日本でも傑作と賞賛される作品なのだから当然とも言えるが、信徒たちを苦しめることだけが目的なのではなく、時間をかけて気力を奪い心を折る、という点に眼目を置いた行為は陰湿で、しかし狡智だ。

 だが、単純に拷問にかけて信仰を覆そうとするなら、話は難しくない。本篇の凄味は、行為以上に、それが明確に信仰、そして布教という行為の是非を問うている、という点にある。

 この作品で注目しておきたいのは、極めて苛烈に切支丹を取り締まる役人たちの側にも論理があり、きちんと筋が通ったものとして描かれていることだ。やり方はあまりに残酷ではあるが、中盤あたりからロドリゴ神父と対話するようになる奉行や役人たちは、自分たちの意識を極めて整然と神父に向かって語っている。これは信徒達に対しても同様だが、心の中までは問わない、表面的に棄てたように装うだけでいい、とさえ言い切っているのだ。一部のものにとってはただの方便であろうし、これが当時の役人達が実際に持っていた共通認識ではないだろうが、その捉え方、解釈には一種の真理があり、説得力がある。そして、間違いではないからこそ、それを巧みに利用してロドリゴ神父を追い詰めていくのだ。

 ある意味では極めて巧妙な罠に嵌まる格好のロドリゴ神父だが、しかしその結果として描かれる終盤は、まるでそれ以前に彼が追い求めていた以上に、遙かにクリスチャンとしての理想を体現しているかのようにも映る。その境遇には筆舌に尽くしがたい苦悩が想像出来るが、しかしこれほどまでに純粋な“信仰”の姿もないだろう。

 本篇は弾圧を通してキリスト教という“信仰”を問うているが、しかし本篇において綴られる信仰、布教の是非は、あらゆる宗教に通じるものだ。弾圧する側の論理と相俟って、その問いかけはいつまでも観るものの胸の中で響き続ける。

 この作品における日本の情景の再現は極めて高い水準にあるが、しかし本篇はそれを広角で壮大に捉えることはせず、あくまで背景として用い、焦点は基本的に人物に当てている。一途に神を信じ命を捧げるもの、弱さを剥き出しにする者、そして信仰の根本に対する問いかけに揺らぐもの、その表情を克明に追う。終盤、一歩引いた位置から描かれる、どこか表情を失ったような人々の顔に、しかしまるで悟りのようなものが窺えるのは、本篇が一貫してその表情と向き合ってきたからこそだろう。

 予め原作を読んだ上で鑑賞したこともあって、個人的には一部の間の作り方、編集にやや物足りなさも覚えたが、しかしその再現性の高さは否定しようもない。日本で書かれた小説に対する敬意と深い理解とがこれほどの傑作を生み出したことを喜び、長い月日を費やして完成に漕ぎ着けたマーティン・スコセッシ監督に心から感謝を捧げたい。



関連作品:

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