『セッション』

TOHOシネマズ新宿、ビル外壁のモニターに表示されていたポスターヴィジュアル(映り込みが酷いので大幅に補正かけてます)。

原題:“Whiplash” / 監督&脚本:デイミアン・チャゼル / 製作:ジェイソン・ブラム、ヘレン・エスタブルック、ミシェル・リトヴァク、デヴィッド・ランカスター / 製作総指揮:ジェイソン・ライトマン / 撮影監督:シャロン・メール / 美術:メラニー・ペイジス・ジョーンズ / 編集:トム・クロス / 衣装:リサ・ノーシア / 音楽:ジャスティン・ハーウィッツ / 出演:マイルズ・テラー、J・K・シモンズ、メリッサ・ブノワ、ポール・ライザー、オースティン・ストウェル、ネイト・ラング / ブラムハウス/ライト・オブ・ウェイ製作 / 配給:GAGA

2014年アメリカ作品 / 上映時間:1時間47分 / 日本語字幕:石田泰子

第87回アカデミー賞助演男優・編集・音響効果部門受賞(作品・脚色部門候補)作品
2015年4月17日日本公開

公式サイト : http://session.gaga.ne.jp/

TOHOシネマズ新宿にて初見(2015/04/21)



[粗筋]

 幼い頃に目醒めて以来、プロのジャズ・ドラマーになることを夢見てきたアンドリュー・ニーマン(マイルズ・テラー)は、名門のシェイファー音楽院に進学する。だが、アンドリューの腕はなかなか評価されず、長いこと控えの奏者としての立場に甘んじてきた。

 アンドリューの境遇が一変したのは、彼の練習を、講師のテレンス・フレッチャー(J・K・シモンズ)が見たことがきっかけだった。シェイファーはこの音楽学校でもトップのバンドを率いているが、そこにアンドリューをスカウトしたのである。

 小躍りしたのは最初だけだった。フレッチャーの指導は、常軌を逸したスパルタ方式だった。自らの理想に届かない演奏には納得せず、何度でも何度でもやり直しをさせる。バンドは来るコンテストに演奏する楽曲として、テンポの極めて速い『Caravan』と『Whiprash』という楽曲を選んでいたが、これらの曲でドラムに求められる技術は高く、フレッチャーは満足出来ない演奏をするアンドリューにシンバルを投げつけて罵った。

 この頃、アンドリューは頻繁に訪れる映画館の売り子であるニコル(メリッサ・ブノワ)と恋人になっていたが、アンドリューは悔しさから練習に没頭する。手の皮が破れ血が流れても、テープで保護して演奏を続けるほどになっていた。

 そして、事件が起きる。開催されたコンテストで、アンドリューはドラムの主奏者タナー(ネイト・ラング)のの譜めくりの担当として参加したが、このときタナーから預けられた譜面のファイルを、油断した隙に紛失してしまう。暗譜が出来ないタナーに代わって、アンドリューが主奏者として舞台に上がり、見事に責務を全うする。

 この日を境に、アンドリューはバンドの主奏者に昇格した。フレッチャーの狷介さを承知でわざと譜面を紛失した、と勘ぐる部員達からは好意的に見られなかったが、フレッチャーのしごきを経験して、精神的に図太くなっていたアンドリューは意に介さなかった。

 しかし、これでアンドリューに安寧が訪れたわけではない。フレッチャーの狂気の指導は、アンドリューの心身を更に蝕んでいく――



[感想]

 ハリウッドとしては異例に少ない制作費(ただし『パラノーマル・アクティビティ』ほど少額ではないし、日本ではそこそこの規模の作品になりうる金額だが)でありながら賞レースで頻繁に採り上げられ、アカデミー賞では本命視されていた助演男優賞を含め3冠に輝く快挙を成し遂げた作品である。

 本篇の凄味は、音楽を題材とした映画のイメージを大幅に裏切る発想を、圧倒的なインパクトでかたちにしてしまった、という一点に尽きる。優れたアーティストの影に隠れて落魄の運命を辿っていく『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』のような作品、裏社会との関わりを軸に青春映画として描き出した『ジャージー・ボーイズ』あたりが最近の代表格だろうが、音楽そのものを追求していく様よりも、そこから生まれる人生の変遷にスポットを当てた人間ドラマとして描かれるものがほとんど、という印象だ。

 だが本篇は、主人公のドラマーと鬼の指揮者との一種のスポ根ドラマめいた関係性を、ほとんど心理サスペンスのような筆致で描き出している。序盤の微温的な雰囲気は、フレッチャーのバンドの稽古場に入った途端に打ち砕かれ、観客はバンド達の味わう緊張感に巻き込まれてしまう。

 音楽に限らず芸術を題材にしたとき、厄介なのは、成長や変化を描きづらい、ということだ。まるっきりの素人が人前でお披露目できるクオリティになるまで努力する、というのはわりと解りやすいが、始めからある程度の実力を持っていた人間の成長は表現しづらい――出来るとしても観客に明確に伝えるのは難しい。だから周囲の反応や評価によってそれっぽく見せてしまうことがほとんどだが、本篇は或る意味、その厄介さを逆手に取っている。恐らく、観客のほとんどは、演奏者達の何にフレッチャーが不満を抱いているのか、まったく解らないはずだ。アンドリューの打ち出すリズムがその都度微妙に違っていることは察しがついても、その何がフレッチャーを苛立たせているのか、理解できる人は恐らくいない。だからこそ、アンドリューの感じる恐怖、追い込まれていく感覚が理解できる。そこから、音楽ドラマにはなかったサスペンスが醸成されていく。

 そうした出来事を経て、次第に主人公までが“狂気”に取り憑かれていく感があるのも本篇の面白いところだ。序盤はむしろ繊細な雰囲気があったのに、バンド仲間たちの冷たい目線にも平然とし、時としてフレッチャーさえ汚い言葉で罵る。恋人や家族にさえ冷淡な口を利くようになる様は、求道者のように超然としている、とも捉えられるが、フレッチャーに対するのとは違う戦慄を味わう観客も多いはずである。最後のコンテストの展開など、フレッチャー以上に常軌を逸している、と言っていい。

 この作品の一筋縄でいかないところは、そうして理解不能なところまで到達しているように見えて、だがアンドリューの没頭ぶりもフレッチャーの理屈にも、ある程度までは理解できてしまうように描いていることだ。好きなものがあり、自分に優れた先人に並ぶ才能がある、と信じるようになったら、そこに執着してしまうのは人として当然の心理だろう。アンドリューの横暴な振る舞いも(許される性質ではないが)決して不自然なものではない。

 そして、人によっては意外と思われるかも知れないが、フレッチャーの意図や言動にも、実は理解できる部分はあるのである。クライマックス手前、ある会話の中でフレッチャーは自らのスパルタ指導の動機について語るのだが、恐らくあれに納得できる人もいるはずだ。――ただしこれも、道理を知っているならすぐに解るはずだが、理屈は合っていても手段はかなり間違っているし、ある事実への対処も、所詮は欺瞞に過ぎない。だが、そう解ったうえでも、フレッチャーの意志は揺るぎなく、捉えようによっては崇高とも言えるのだ――それ故に、人によっては別の意味で慄然とするはずである。

 だが、本篇を何よりも特異なものにしているのが、クライマックスであることは誰しも納得するのではなかろうか。物語中一貫したフレッチャーの狂気と、彼の度を超したスパルタ指導が生み出したアンドリューの狂気とが交錯する熱気に、圧倒されずにいられない。ここまで徹底して、自らのジャズを完成させることに執心するフレッチャーを演じたJ・K・シモンズはもちろん、しっかりとしたトレーニングを経て、クライマックスの瞬間に名プレイヤーが誕生した感覚を観る側に味わわせるほどの名演を披露したマイルズ・テラーも賞賛ものだ。

 もはや会話さえない終盤のやり取りは、人によっては納得が出来ないかも知れないが、それまでの出来事を思えばあり得ないものではない。いちどは支配下に置かれ、技術を磨き上げながらも放たれたアンドリューだからこそこの境地に辿り着いたのであり、だからこそフレッチャーもあのような反応を示した。その先に輝かしい未来を想像することは難しいが、描かれた出来事の集積を、混じりけのない技でかたちにしたクライマックスにただただ打ちのめされるほかない。

 フィクションとは言えフレッチャーの行動がどうしても許せない、という人は多いだろうし、それを受け入れてもあの結末は理解に苦しむ、という人もあるだろう。賛否が割れるのもそうした性質故だろうが、一般的な音楽を題材とした映画にはなかった緊迫感と、それが一気に爆発するかのようなクライマックスの熱の凄まじさが、語り継ぐに値するレベルであることを否定しきれる人はそうそうあるまい。



関連作品:

ラビット・ホール』/『スパイダーマン3』/『とらわれて夏』/『エイリアン2 完全版

バード』/『スウィングガールズ』/『クレイジー・ハート』/『カルテット!人生のオペラハウス』/『アンコール!!』/『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』/『ジャージー・ボーイズ

パラノーマル・アクティビティ