『別離』

『別離』

英題:“Jodaeiye Nader az Simin” / 監督、脚本&製作:アスガー・ファルハディ / 製作総指揮:ネガー・エスカンダーファー / 撮影監督:マームード・カラリ / 美術&衣裳:ケイヴァン・モガダム / メイクアップ:メーダッド・ミルキアミ / 編集:ハイェデェ・サフィヤリ / 音響デザイン:モハマッド・レザ・デルパック / 音響編集:レザ・ナリミザデー / 出演:レイラ・ハタミ、ペイマン・モアディ、シャハブ・ホセイニ、サレー・バヤト、サリナ・ファルハディ、ババク・カリミ、アリ・アスガー=シャーバズィ、シリン・ヤズダンバクシュ、キミア・ホセイニ、メリッサ・ザレイ / 配給:MAGIC HOUR×ドマ

2011年イラン作品 / 上映時間:2時間3分 / 日本語字幕:柴田香代子 / 字幕監修:ショーレ・ゴルバリアン

第84回アカデミー賞外国語映画賞部門受賞(脚本部門候補)作品

2012年4月7日日本公開

公式サイト : http://www.betsuri.com/

Bunkamuraル・シネマにて初見(2012/04/07)



[粗筋]

 シミン(レイラ・ハタミ)が申し立てた離婚は、裁判所で却下されてしまった。夫ナデル(ペイマン・モアディ)とのあいだに致命的な不和はなく、関係の改善は可能である、と判断されたのだ。

 だが、一人娘テルメー(サリナ・ファルハディ)の教育を配慮して、一年半を費やして国外移住の手続きをしていたのに、それをあっさりと反故にされたのがシミンにはどうしても納得がいかなかった。そこでシミンは強硬手段として、家を出ることを決意する。

 ナデルにも言い分はあった。しばらく前からナデルの父(アリ・アスガー=シャーバズィ)は認知症に罹り、終日目が離せない。事情が変わったいま、おいそれと国外に出るという選択肢はあり得なかったし、シミンと別れることも彼には考えられなかった。

 家を出るにあたり、シミンは日中、夫が家を空けているあいだを任せるための手伝いを雇うことにした。ナデルの姉の紹介でやって来たのはラジエー(サレー・バヤト)という主婦であったが、彼女は勤務初日になって、話が違う、と不平を漏らす。貧しいラジエーは家から遠く、通うのに時間も費用も嵩むため、ナデルが提示した賃金では割に合わない。加えてラジエーは、留守宅に認知症の老人がおり、その面倒を見ることも要求されていたことを知らなかった。

 お互いのことで頭がいっぱいのナデルとシミンはラジエーの訴えに耳を貸さず、揃って家を出てしまう。やむなくラジエーは仕事を始めるが、連れてきた自分の娘ソマイェ(キミア・ホセイニ)とナデルの父親が悩みの種だった。

 そして、事件は起きる。シミンが家を出て数日、テルメーを学校に迎えに行き、戻ってきたナデルは、父がベッドに腕を縛りつけられたままベッドから転落、昏倒しているのを発見した――



[感想]

 日本初紹介となった前作『彼女が消えた浜辺』もそうだったが、アスガー・ファルハディ監督の作品には、普段あまり窺い知ることの出来ない、イランの日常生活を垣間見ることが出来る、という面白さがある。本篇の中心となるナデルとシミンの家庭はどうやらイランでは中流と言えるようだが、各種インフラや家族観など、現代の日本とさほど変わりない印象を与えることに驚く。

 無論、まったく同一ではない。貧困層に属すると思しいラジエーは、都市部に通うための交通費にも苦慮するほどのようだし、そもそも彼女が家政婦代わりに雇われながら、認知症を患った老人の面倒を見ることを渋るのは、イスラム教の戒律ゆえである。日本でもこういう状況であっさりと介護を承諾するひとばかりではないだろうが、その理由に宗教が食い込んでくることは多くはあるまい。

 特に印象的なのが、裁判所のありようだ。フィクションゆえの誇張が多分に含まれている可能性もあるが、一方が頑強に離婚の意思を表明しているのに、“理由が十分でない”として離婚の申し立てを却下する、という経緯もちょっと驚きだが、もっと驚くのが、そのあとの裁判もすべて、同じような場所で行われている点だ。離婚調停の判事は顔が映らないので、のちに登場する判事と同一人物か、は定かではないが、似たような小さな個室で、被告も原告も壁際の椅子に並んで座り、ドアを出るとすぐに廊下で、待合室代わりとなっている壁際にはたくさんの人が詰めかけている。裁判所と言えば静粛で厳めしい場所、というイメージのほうが日本やアメリカなどでは一般的と思われるが、比較するとこのある意味“身近”と呼べるムードに驚かされる。

 しかし本篇の見所は、そうした文化の違いや共通性を見つける愉しさにあるわけではない。そうした背景の差違が、他国の人間にも伝わりやすく描かれる一方で、その土台の上に組み立てられた、緻密な描写と物語にこそある。

 ごく大雑把に説明すれば、“バッドエンド版『クレイマー、クレイマー』”でまとめられるが、しかしそういう表現が軽々しく響くほどに、何もかもが裏目に出る展開には、言葉を失うほどだ。前提を示す序盤こそ少々もっさりとしているが、粗筋最後に記した出来事からあとは、これでもか、とばかりに事態が悪い方へ、悪い方へと転がっていく。

 題名や広告などで提示されているのがナデルとシミンふたりの姿を撮した写真なので、基本的に夫婦の話なのかと誤解するが、実際には更に家事手伝いとして雇われたラジエーと、その夫ホッジャト(シャハブ・ホセイニ)、そしてナデルとシミンの娘テルメーの目線が随所で絡んで、群像劇に近い雰囲気を醸しだす。

 娘のためを想って国外移住を実行させようとする妻と、父親の介護のために国に留まろうとする夫のすれ違いに始まった一連の悲劇は、同様にほんの僅かな考え方、捉え方の違いに、少しでも立場をよくしよう、或いは誰かに対する善意でついた嘘や沈黙が更に大きな誤解を生み、もはや取り返しがつかないほどに膨れあがっていく。それぞれの目で見つめた事件の様相、認識の違いが、事態を急速に悪化させていくさまは、全員が決して悪意で行動しているわけではないだけに悲痛だ。

 本篇の秀逸たる所以は、本篇の出来事のきっかけが独特の文化に根付いていながら、登場人物たちの抱く感情は普遍的で、同感しやすいところにある。ナデルとシミンの意見が対立し、相手に対して憤るのもごく自然と感じられるし、宗教に根ざした価値観で生きてきたラジエーが随所で見せる、信仰と現実とのあいだで味わう困惑も理解出来る。多くの人物が口にする嘘も、それに対する周囲の反応も、非常に呑みこみやすい。それ故に、本篇の悲劇はとても身近で、だからこそ救いがたく映る。

 語り口も絶妙である。前作もそういう匂いがあったが、本篇も随所でミステリめいた手捌きで観客を翻弄する。ところどころに垣間見える謎について、登場人物が検証するひと幕があり、かと思うとさり気ない場面に意味が隠されていることがあとあと語られる、という趣向もあるのだ。決して精緻な謎解きをしているわけではないが、その洗練された手管は注目すべきものがある。

 およそ何一つ解決しそうもない、絶望的にもつれた状況をどう収束させるのか、という点にも興味が湧くが、この点も本篇は実に巧い。結局のところ解決はしていないし、ある意味過程がすべて無意味に感じられるが、それ故に本篇は観る者の心に鋭く楔を穿つ。

 最後、ある人物に託された選択の答を明瞭にしなかったところまで含め、隅々にまで深い思慮が窺える。イランという、馴染みのない国の映画だからきっと解りにくいだろう、などと思うかも知れないが、本篇はイランという国の、政治的な側面からは解りにくい庶民の実像が垣間見えるとともに、イランならではの物語であり、そして人間というものの普遍的な相互理解の難しさを巧みに剔出した、稀有な名篇である――馴染みのない国の作品だから、という程度で避けるのはあまりに勿体ない。



関連作品:

彼女が消えた浜辺

友だちのうちはどこ?

クレイマー、クレイマー

ディボース・ショウ