『七人の侍』

『七人の侍』

監督:黒澤明 / 脚本:黒澤明橋本忍小国英雄 / 製作:本木壮二郎 / 監督助手:堀川弘道、田実泰良、広沢栄、金子敏、清水勝弥 / 撮影:中井朝一 / 美術:松山崇 / 照明:森茂 / 編集:岩下広一 / 衣装:山口美江子(京都衣裳) / 録音:矢野口文雄 / 音楽:早坂文雄 / 出演:三船敏郎志村喬津島恵子藤原釜足加東大介木村功千秋実宮口精二、小杉義男、左卜全、稲葉義男、土屋嘉男、高堂国典、熊谷二良、富山晴子、東野英治郎、上田吉二郎、谷晃、中島春雄多々良純堺左千夫渡辺篤、小川虎之助、千石規子山形勲上山草人、高木新平、大友伸、高原駿雄、大村千吉、杉寛、杉幹、牧壮吉、千葉一郎、堤康久、宇野晃司、島崎雪子仲代達矢 / 配給:東宝

1954年日本作品 / 上映時間:3時間27分

1954年4月26日日本公開

2009年10月23日映像ソフト日本最新盤発売 [DVD Video特装版:amazon|DVD Video普及版:amazonBlu-ray Discamazon]

有楽町スバル座にて初見(2011/12/22) ※“オールタイム ベストムービー イン スバル座 メモリアル65TH”の1本として上映



[粗筋]

 戦国時代、激しい戦の果てに主君を失い浪々の身分となる武士が増え、そうした者の一部は盗賊となって各地を荒らし、抵抗力のない農民の生活を苦しめていた。

 とある村では、この野武士の暴虐によって、村を捨てるか首を括るか、というところまで追い込まれていた。困窮した農民たちが、村外れに暮らす長老格の男・儀作(高堂国典)に相談すると、儀作は意外な策を提示する。かつて、同じように荒らされた村のなかで、侍を味方につけた家だけは生き残った――自分たちも、侍を雇うのだ、と。

 この無謀な提案に乗って、利吉(土屋嘉男)を筆頭とする四名が宿場町へと、用心棒捜しに赴いた。しかし、危ぶまれたとおり、報酬はなし、ただたらふく飯が食える、という条件を呑んで雇われるもの好きはそうそう見つかるものではない。十日間を無為に費やし、徒労感に見舞われていたとき、利吉たちは遂に、その男に巡り逢った。

 利吉たちが間借りしていた人足の小屋の近くで、盗賊が子供を人質に立て籠もる事件が起きた。そこへ現れたのが、浪人・島田勘兵衛(志村喬)である。勘兵衛は髷を切り頭を剃り、僧侶から袈裟を借りると、握り飯をちらつかせて接近、隙をついて見事に盗賊を討ち果たした。その腕前と、頭を剃ることも厭わずことに臨んだ姿に感銘を受け、利吉は勘兵衛に頭を下げて助力を請う。

 はじめ、勘兵衛は決して色好い返事をしなかった。百姓が侍を雇うという暴挙もさることながら、勘兵衛の試算では、村を守るために最低でも七人は必要となる。自分ひとりが乗り出したところで、解決にはならない――だが、利吉たちだけでなく、間貸ししていた人足たちにも懇願され、勘兵衛は最終的にこの頼みを受け入れた。

 そうとなれば、必要なのは戦いに長けた者の頭数である。勘兵衛が用意した腕試しの罠をあっさりと看破した片山五郎兵衛(稲葉義男)がまず加わり、勘兵衛が“古女房”と呼ぶ家臣・七郎次(加東大介)も遅れて参加した。腕前は劣るが、その周囲を和ませる人柄に五郎兵衛が目をつけた林田平八(千秋実)も、請われると喜んで加わる。

 先の人質の一件を目の当たりにして勘兵衛の人格に惚れ込み、押しかけ弟子となっていた岡本勝四郎(木村功)には当初、勘兵衛は若さを理由に里に帰るよう諭していたが、熱心さと周囲の説得に屈して人数に加えられた。

 最後のひとりは、人質事件以降勘兵衛にまとわりついていた男である。何処かから盗んできた家系図を証拠に武士だと言い張るものの、明らかに出自の怪しいこの男――通称菊千代(三船敏郎)は、頼まれてもいないのに、最後のひとりの勧誘を諦め村へと出立した侍たちに勝手についてきて、意外な貢献をしたことで認められ、仲間入りを果たした。

 かくして揃った七人の侍は、収穫のあとに想定される野武士の襲撃に、準備を開始する……



[感想]

 日本の娯楽映画史に燦然と輝く不動の金字塔、なんてことは今更言われなくても解っている、という人は多いだろう。だが、ずっと機を逸し時を待ち続けていたがために、これだけたくさん映画を観たあとでようやく辿り着いた私にとっては、ようやく実感をもって言い切れる表現なのだ。どうか見逃していただきたい。

 本篇が如何に優れた作品であったか、何よりも解りやすく証明しているのは、他でもない本篇を西部劇としてリメイクした『荒野の七人』である、と私は思う。

 決して『荒野の七人』が不出来な作品だ、と言いたいわけではない。むしろあの作品は西部劇として完成されており、ジャンル内での名作として今後も記憶されると信じる。

 ただ、本篇を観たあとであの作品を振り返ると、こう言っては何だが、如何にも“軽い”。大事な要素はすべて温存してはいるが、しかしそれらがいい意味でも悪い意味でも軽くされてしまっている。百姓たちが用心棒となる侍を捜しに行く過程は『荒野の七人』では大幅につづめられ、最後の合戦における人死にのさまは、西部劇らしくヒロイックにまとめられてしまった。本篇においては、百姓たちは己の食事を切り詰めてでも侍たちを捜し出そうとする姿が悲愴なほど丁寧に描かれ、合戦での死は決して英雄的ではなく、むしろその不条理さを滲ませる形で表現されている。

『荒野の七人』があくまで“ヒーローが庶民を守る”という、娯楽映画王道の構図を基本では貫いている――守られる者たちも共に戦う、という部分で感動を加えてもいる――のに対し、オリジナルである本篇は、百姓が侍を雇う、という趣向の突飛さを除けば、むしろリアリティを演出する、可能な限り資料に忠実に描き出そうとしているゆえに、そういう差違が生じたものと考えられる。

 たとえば、本篇の登場人物は勝四郎以外、基本的に薄汚い服を着ている。貧しい百姓はもとより、旅を繰り返す浪人たちに服を洗う余裕があるはずもなく、これは考えてみれば当然のことだ。侍同士で小競り合いをするときの様子や、侍と百姓たちの微妙な関係性など、現代の時代劇においても決して充分に歴史を踏まえているとは言い難い部分を細やかに押さえ、作品を当時の空気で見事なまでに満たしている。

 なかでも、合戦の場で繰り出される戦略の理路整然ぶりは秀逸だ。地理的条件を考慮し、田圃を堀代わりに利用する一方で、川の外にある家を戦略的に排除する。理に適ってはいるが無慈悲な判断が、だが“戦”という状況の生々しさを実感させ、更には重層的なドラマを生み出すことにも用いている。『荒野の七人』は小さな町に現れたガンマンたちが、町の人々に武器の扱いを教えたり、子供たちと交流する姿を意識的に強調して切り取り、人情味を膨らませているが、本篇はそういう描写をエッセンス程度に留め、ある意味では淡々と、しかし緊密に組み立て、それぞれが切り離せないレベルにまで昇華している。

 解りやすい、という考え方をすれば、間違いなく『荒野の七人』のほうが解りやすいし、中心となるガンマンたちの姿が凛々しく切り取られたあちらのほうが親しみやすいだろう。だが、当時の浪人たちや百姓たちの生活ぶりを生々しく切り取り、笑いも怒りも哀しみも渾然一体に描き出した本篇のほうが、作品として研ぎ澄まされている。

 それでも映画には華やかさや派手さが欲しい、という人はあまり好まないであろうし、古い作品であるだけにフィルムの状態の悪さは如何ともし難く、私が劇場で鑑賞した際は随所で台詞がよく聞き取れず、慣れるのに苦労した、という事実もあり、観る上で若干の気構えは必要になる。しかしいまなお本篇が世界的に見ても傑出した、完璧に近い娯楽映画であることに変わりはない。たぶん、映画という文化が維持される限り、ずっと最高峰に位置する作品だろう――もはや好き嫌いを超越してしまっている。



関連作品:

荒野の七人

姿三四郎

黒蜥蜴

三本指の男

獄門島