『いちご白書』

『いちご白書』

原題:“The Strawberry Statement” / 原作:ジェームズ・クーネン / 監督:スチュアート・ハグマン / 脚本:イスラエルホロヴィッツ / 製作:アーウィン・ウィンクラー、ロバート・チャートフ / 撮影監督:ラルフ・ウールジー / 美術:ジョージ・W・デイヴィス、プレストン・エイムズ / 編集:マージョリー・ファウラー、フレドリック・スタインカンプ、ロジャー・J・ロス / 音楽:イアン・フリーベアン=スミス / 主題歌:パフィー・セント=メリー『Circle Game』 / 挿入歌:『Give Peace a Chance』 / 出演:ブルース・デイヴィソン、キム・ダービー、バッド・コート、マーレイ・マクロード、ボブ・バラバン、マイケル・マーゴッタ、イスラエルホロヴィッツ、ジェームズ・クーネン、ダニー・ゴールドマン / 配給:Unplugged

1970年アメリカ作品 / 上映時間:1時間49分 / 日本語字幕:風間綾平

1970年9月26日日本公開

2011年11月19日日本リヴァイヴァル公開

公式サイト : http://eiga-ichigo.com/

新宿武蔵野館にて初見(2011/12/10)



[粗筋]

 学生運動華やかなりし頃のサンフランシスコ。

 苦労して入った大学でボート部に所属、青春を満喫していたサイモン(ブルース・デイヴィソン)だったが、ここへ来て彼の大学でも、大規模なストライキが始まっていた。発端は大学に隣接し、近所の貧しい子供たちの遊び場となっていた公園を大学側が売却、予備将校訓練施設を建設する計画を打ち出したことである。学生達の反対運動に対して学長は「あんなものは“いちごが好きだ”と宣言している程度に過ぎない」と発言、このことが学生達に火をつけ、今や大学構内は学生運動家たちに占拠され、学長室での座り込みを行い、一触即発の状態に陥っている。

 ノンポリのサイモンは、当初運動には関心がなかったが、大学の門越しに見つけた学生運動家のひとりリンダ(キム・ダービー)に惹かれ、彼女に接触したい、という興味本位で門をくぐった。

 いざ潜りこんだ学生運動の渦中は、しかし思いの外緊張感に乏しかった。盛んに議論に加わる学生がいる一方で、長期に亘るストライキのために食糧不足に陥り、多くの学生達のあいだにはだらけた空気が流れている。参加するなり食料係に任命されたサイモンは、幸いにも同じ食料係を務めていたリンダと早々と再会、瞬く間に急接近した。

 しかし、もともと使命感などないままに運動に加わったサイモンは、朝方には学校を抜け出し、学生運動に反発する生徒も多く所属するボート部の練習にも参加した。そんなどっちつかずの姿勢を、リンダには隠そうと試みたが、問題意識の乏しさは早々とリンダに看破されてしまう……



[感想]

 1960年代末から70年代にかけて、各国で学生運動が盛んに行われた。日本でも安田講堂占拠やあさま山荘事件のように、世間を騒がせた記録が残っている。

 この作品はそういう時代にあって、学生運動の様子を生々しく再現、人気を博している。荒井由実作詞作曲による『「いちご白書」をもう一度』という曲が生まれているほどだ。日本のフォークソングに多少親しんでいる私としては、逆にこの曲のモチーフという印象だけが残っているので、一度は観ておきたかった作品だった。

 観てみると、なるほど当時は持て囃されるのも当然だ、と頷ける。この映画には確かに、学生運動というものの実感的な空気が充満している。

 しかも、主人公であるサイモンの辿った変化は、実は当時の学生たちの多くに共感しやすいものではなかったか。最初はいわゆるノンポリで、イデオロギーとは無縁だったサイモンが運動に身を投じるきっかけは、リンダという異性への関心だった。そこまで極端でなくとも、友達に誘われて、とか何となくカッコいいから、という至極雑な理由で運動に加わった、という者は少なくなかったと思われる。

 そして、運動に加わる学生たちも、当然ではあるが一枚岩ではない、それどころか案外意思の疎通も出来ていないことを窺わせる描写があちこちに見える。占拠した学長室でいまさらながら会議を繰り返し、酷く大雑把な役割分担で物資や兵糧の維持を試みる。会議の場で、「決を採ることに賛成の人は挙手を」という馬鹿げた質問をするあたりは、ユーモアではあるのだろうが、その結束の悪さを象徴するかのようだ。

 いちおう物語の背景には、大学の所有地に設けられた公園を、軍事施設のために売却する、という行動に反対する、という明確な意図があるのだが、その公園の姿や、実際に戦う相手の姿が見えないこともあって、余計に彼らの行動は焦点を欠いている。作中、同志たちを前に演説する男の姿に、自分が熱弁を振るう様を想像するサイモンの表情には、大義名分よりも、ありあまる生命力を発散することを求めているように映るのだ――事実、物語の結末を飾っているのは、この当初は妄想に映る場面の引用なのである。

 製作、公開された当時は、学生運動に関わるようになった人々の実態を素直に、そしてスタイリッシュに織りこんだことが好評を博し、やがてバイブル的な扱いを受けるに至ったのだろう、と想像は出来る。だが、いまの目で観ると、その華やかさと同時に、焦点を欠く運動の浅はかさを抉っているようにも感じられるのが面白い。

 結局彼らに出来ることは座り込みで占拠することしかないし、方向性も定まっていないために、それ以外にはシュプレヒコールや演説、ビラ撒き程度に留まっている。そんななかで並行して描かれるのは、下心を発端にしたサイモンの軽薄な行動や、彼に巻き込まれる格好で加わる友人たちの勢いばかりが勝った言動が中心で、決して彼らの問題意識がどこに向いているのかは描かれないし、物語自体も運動の照準がどこに定まっているのかはあまり重要視していないように映る。彼らの生態をスタイリッシュに描きながら、しかしその根っこに欠けているものがあることを示そうとした作品のように捉えられるのだ。

 もっともそれは、本篇が当時の空気を的確に切り取っているからこそ、感じることなのかも知れない。当時の学生運動や、そこに身を投じる若者たちの姿に共感するか否かは別にして、あまり描かれていない学生運動のムードを完璧な形で織りこんだ作品であるのは確かだ。観て面白く思えるかどうかは人によるだろうが、少しでも1970年代の風俗や学生運動の様子などに関心がある人は、機会があれば観ておくべきだ――2011年12月現在、DVDやブルーレイではリリースされておらず、鑑賞するのは困難なのだけれど。



関連作品:

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