『真夜中のカーボーイ』

真夜中のカーボーイ [Blu-ray]

原題:“Midnight Cowboy” / 原作:ジェームズ・レオ・ハーリヒー / 監督:ジョン・シュレシンジャー / 脚本:ウォルド・ソルト / 製作:ジェローム・ヘルマン / 撮影監督:アダム・ホレンダー / プロダクション・デザイナー:ジョン・ロバート・ロイド / 編集:ヒュー・A・ロバートソン / 舞台装置:フィリップ・スミス / 音楽:ジョン・バリー / 出演:ジョン・ヴォイトダスティン・ホフマン、シルヴィア・マイルズ、ジョン・マッギーヴァー、ブレンダ・ヴァッカロ、ギル・ランキン、バーナード・ヒューズ、ルース・ホワイト、ジェニファー・ソルト、ゲイリー・オーウェンズ、ジョーガン・ジョンソン、アンソニーホランドボブ・バラバン、ポール・ベンジャミン / 配給:日本ユナイテッド・アーティスツ / 映像ソフト発売元:20世紀フォックス ホーム エンターテイメント

1969年アメリカ作品 / 上映時間:3時間6分 / 日本語字幕:菊地浩司 / PG12

1969年10月9日日本公開

2011年5月27日映像ソフト日本最新盤発売 [DVD Video:amazonBlu-ray Discamazon]

第2回午前十時の映画祭(2011/02/05〜2012/01/20開催)《Series2 青の50本》上映作品

TOHOシネマズ六本木ヒルズにて初見(2011/08/30)



[粗筋]

 テキサス州のドライヴインで働くジョー・バックス(ジョン・ヴォイト)は、職を辞めて心機一転、東部へと赴くことにした。ラジオの話によれば東部の男たちはマッチョで頼り甲斐のある男を求めているといい、カウボーイ・スタイルの美男子であるジョーは、金持ちのマダムとベッドを共にすれば充分稼いでいける、そう踏んだからである。

 何十時間もバスに揺られ、辿り着いたのはニューヨーク。ホテルの一室を拠点に、商売を始めようとしたジョーだったが、彼の甘すぎる目論見は、初日のうちに打ち砕かれる。街中で裕福そうな女性に声をかけても、靡くどころか罵られ、ようやく捕まえたペントハウス住まいの女性には、支払をしてもらうどころか、逆に出かけるためのタクシー代を毟られる始末だった。

 思惑の外れたジョーがバーで痛飲していると、隣に座っていた男に慰められた。ジョーの男ぶりなら客はつくだろうが、本当の上客は街で声をかけても掴まらない。仲介する人間が必要だ――納得するジョーに、エンリコ・リッヅォ(ダスティン・ホフマン)と名乗った男は、その方面に顔の広いダニエルという男を紹介する、と言われ、ジョーは喜んでリッヅォについていった。

 だがダニエルは顔役どころか、信仰に没頭しているだけの貧しい男だった。仲介料としてなけなしの金をリッヅォに手渡していたジョーは激昂し、自分を騙した男の姿を探すが発見できない。

 以来、ジョーはまったく収入の口を得られず、とうとうホテルを追い出されてしまう。この際稼げれば何でもいい、と考え、男の客を求めたジョーだったが、ようやく捕まえた客も一文無しで、けっきょく稼ぐことは出来なかった。

 行き場もなく、ニューヨークの街を彷徨っていたジョーは、早朝の喫茶店に、あの男――リッヅォが座っているのを見つけ、掴みかかるが……



[感想]

 カウボーイに憧れ、そのスタイルを模倣する若者、という設定は特徴的だが、しかしストーリーそのものはビターな青春物語の典型と言っていい。

 自分の資質、才能を見誤った大望(というよりも妄想)を抱いて新しい土地に赴き、予想していなかった成り行きに頓挫しても、なおも楽観的に日々を過ごし、どんどん追いつめられていく。ホテル暮らしはあっという間に不可能となり、住む家もなく彷徨した挙句に、逢った早々自分を騙していた男と再会し、その男の家に転がり込む羽目になる。いささか極端、かつ周囲からの孤立が著しい傾向にあるが、その転落の構図はオーソドックスだ。

 出色なのは、カウボーイ・スタイルの主人公ジョーに、イタリア系の洒落た振る舞いをしながら生活は汲々とし、ジョーとは反対に西海岸に憧れる男を組み合わせたことである。どちらもどこか現実離れした発想故に身を持ち崩していくが、ふたりの憧れが対極を向いているために、地に足が着いていない雰囲気が増している。

 この物語には実のところ、悪人というものは登場していない。リッヅォが最初、ジョーを騙したような構図になっているが、ジョーが引き合わせたあの男は、リッヅォの説明とは違っていても、決して悪事に彼を導こうとしていたわけではなかった。ジョーという男が一種“無邪気”であるせいで、この街本来のルールの上で生活している人々の振るまいが時として悪意に見えてしまうだけで、決してジョーを凋落させようとか、犯罪に引きずり込もうとした人々はいない。

 一般的な青春映画と比べ、本篇が色濃く示すのは“無知”と“孤独”だ。恐らくジョーは郷里でも、決して友人を多く作らず、ラジオ以外の情報源を持たなかったのだろう、出て来るときもまるで衝動に駆られたように唐突に飛び出し、勤め先以外で挨拶をした様子もない。ニューヨークに移り住んでも、かつての友人たちと連絡を取る気配もなく、つまり第三者の価値観に触れる機会を得ていないのだ。奇妙な経緯で同胞のようになったリッヅォにしても、幾分ニューヨークでの暮らしに慣れているに過ぎず、決して世間を十分に理解しているわけではない。

 ただリッヅォの、肺病を患っていること、西海岸に憧れていることが、最後の最後でジョーに変化を齎すきっかけとなっているあたりが、構成として巧みだ。終盤でいいほうへと転がりそうな気配を見せることも、結果として悪い方へと傾くのも、リッヅォの存在が引き金となっている。互いに非常に孤独であるが故に、本来友情を築ける関係でなかったはずが引き寄せあい、そして結果として初めてジョーの意識が外に向かう。その顛末は悲劇的だが、過程自体は人が初めて社会に出て行く際の苦悩、痛みを巧みに象徴しているのだ。

 それ故なのか、本篇の結末は苦々しくやり切れない想いを抱かせるが、何故か微かな清々しさも漂っている。行く先には何もないが、だが奇妙なこだわりを振りほどいた直後だからこその、解放感があるせいかも知れない。

 ダスティン・ホフマンにとって出世作となった『卒業』と、ある意味では近い境地を目指しながら、ガジェットも締め括りもまるで異なる。しかし、ラストシーンを飾るシチュエーションが似ているというのも興味深い。

 いずれにせよ、観終わったあとに途方もない虚しさを残すとともに、真摯に向き合えば確実に、思索に耽ってしまうはずの、上質の青春映画である。私が若干そう思いこんでいたので言い添えておくが、別に西部劇もどきの珍品ではないのだ。



関連作品:

ナショナル・トレジャー/リンカーン暗殺者の日記

卒業

大いなる西部