『大いなる西部』

大いなる西部 [Blu-ray]

原題:“The Big Country” / 原作:ドナルド・ハミルトン / 監督:ウィリアム・ワイラー / 脚本:ジェームズ・R・ウェッブ、サイ・バートレット、ロバート・ワイルダー / 製作:ウィリアム・ワイラーグレゴリー・ペック / 撮影監督:フランツ・F・プラナー / タイトルデザイン:ソウル・バス / 美術監督:フランク・ホテリング / 衣裳デザイン:エミール・サンティアゴ、イボンヌ・ウッド / 編集:ロバート・ベルチャー、ジョン・フォーレ / キャスティング:ドロシー・ホイットニー / 音楽:ジェローム・モーロス / 出演:グレゴリー・ペックチャールトン・ヘストンジーン・シモンズ、キャロル・ベイカー、バール・アイヴス、チャールズ・ビックフォード、チャック・コナーズ、アルフォンソ・ベドヤ / 配給:日本ユナイテッドアーティスツ / 映像ソフト発売元:20世紀フォックス ホーム エンターテイメント

1958年アメリカ作品 / 上映時間:2時間46分 / 日本語字幕:岡田壯平

1958年12月25日日本公開

2011年7月6日映像ソフト日本最新盤発売 [DVD Video:amazonBlu-ray Discamazon]

第2回午前十時の映画祭(2011/02/05〜2012/01/20開催)《Series2 青の50本》上映作品

TOHOシネマズ六本木ヒルズにて初見(2011/07/22)



[粗筋]

 1870年代、アメリカ。東部で船乗りとして財を成したジェームズ・マッケイ(グレゴリー・ペック)は、恋仲となったパトリシア・“パット”・テリル(キャロル・ベイカー)と結婚を決意して、テキサス州へ移住した。

 テキサス州でパットに出迎えられ、2人で馬車に乗ってパットの実家へ赴く途中、マッケイは早速西部の洗礼を受ける。道中で、荒くれ者に絡まれたのである。パットは食ってかかったが、マッケイは彼女を制し、穏当にその場を立ち去る。

 テリルの父親で、地元の有力者であるヘンリー・テリル大佐(チャールズ・ビックフォード)は娘の眼を信じてマッケイを快く受け入れた。だが、以前からパットに想いを寄せていた牧童スティーヴ・リーチ(チャールトン・ヘストン)を筆頭に、男達は東部からのこの来客に不審の眼差しを向け、さかんにその度胸を試そうとするが、マッケイはいくら馬鹿にされようとも取り合わない。

 テリル大佐はそんなマッケイの態度にも文句をつけることはなかったが、やがて娘婿となる人物に因縁をつけた者に容赦はしなかった。マッケイがテリル家を訪れた日、彼に難癖をつけたのは、大佐が長年にわたって対立しているルーファス・ヘネシー(バール・アイヴス)の息子たちだったと知った大佐は、部下と共にヘネシー家を襲撃、息子たちをリンチにかける。

 周囲にどう思われようと自分を貫いていたマッケイは、その無益な諍いを収めるべく一計を講じた。目下、両家が対立する最大の理由は、放牧の牛たちが水を飲むために利用していた“ビッグ・マディ”という土地が、当初の所有者を失い、管理が疎かになっていることにある。そこでマッケイは、土地の権利を受け継いでいる教師で、パットの親友であるジュリー・マラゴン(ジーン・シモンズ)に交渉を持ちかけた……



[感想]

 題名から漠然と、ごく王道の、正統派の西部劇、というイメージを持っていた。監督が『ローマの休日』や『ベン・ハー』といった、映画史に刻まれる傑作をものしているウィリアム・ワイラーであるだけに、定番のモチーフを得たなら、王道の話作りをするのでは……と思いこんでいたせいもあるのだろう。

 無論、西部劇に対する理解、愛着なしでは作れなかったタイプの作品であることは間違いない。だが本篇は正統派というよりは、随所に意識したひねり、やもするとアンチテーゼめいた描写が目立つ、異色作と感じられた。

 そもそも主人公からして西部ではなく東部出身、というのが異彩を放っている。西部出身なのに、力比べに応じない、勝負を避けようとする、一見軟弱な振る舞いをしているから罵られるのではなく、東部の人間だから軟弱なのだ、と侮られる。主人公のジェームズ・マッケイは船乗りであり、カウボーイでも船乗りでもない者の目から見ればどちらも荒くれ者であることに変わりはないのだが、作中登場する西部の男達にとっては、まず出身地が重要であるらしい。相手の意図が何処にあるのかを汲み取ることなく、行動の表層だけをなぞって嘲弄する姿を、ある意味陰湿で、滑稽なものめいた描き方が、全篇にわたって採り上げられているのだ。

 このアンチテーゼ的な趣向は、特に終盤において顕著だ。様々な確執の結果、マッケイはある人物と決闘に及ぶが、そのスタイルは西部劇に対する造反めいてさえいるし、ある人物の反応などはかなり痛烈な皮肉にもなっている。そのあとの展開など、急に西部劇お約束の“熱さ”をたたえたかと思えば、それをひっくり返すような成り行きになる。定番のシチュエーション、やり取りを巧みに組み込みつつも、その定石をことごとく覆すような話運びは「もしかするとこの製作者たち(原作者も含む)は、西部劇のお約束が嫌いなのではないか?」と訝りたくなるくらいだ。

 だがそうではないことはむしろ、丁寧すぎるほどに定石を踏まえながら、決してそれを嘲笑しない描写から窺える。西部的な気風の洗礼を受けるマッケイが、彼らの挑発を鷹揚に受け流しているのも、拒絶するのではなく理解しようとしている証だろう。だがそれでも、闇雲に争いを仕掛け、男っぽさを誇示しようとすることに、マッケイ自身は価値を見出していない。そこに芯が通っていなければ、一皮剥けば惨めな本性を晒すだけなのだから。

 だから本篇はむしろ、表層的に陥りがちな西部劇の格好良さの本質を、魂にこそ見出させようとしている作品と言える。西部に暮らし、固定された人間関係に視野や言動の画一化してしまった人々よりも、そこに飛び込もうとする男のほうが、却って西部の人間めいた風格を漂わせる。

 そのうえで描かれる戦いの終幕は、本篇全般でみっともなく映る西部の男達に与えられた、汚名返上の好機だった、とも思える。道化としてではなく、きちんと矜持を示す場面を用意したことこそ、製作者たちが本当に“西部劇”を愛している証左と言えまいか。

“西部劇”という側面を抜きにしたとしても、一筋縄で行かない話運びにきりきり舞いされ、遣る瀬なくも美しい余韻を留める秀逸なドラマであることに変わりはない。だが、“西部劇”に対する製作者たちの想いを汲みながら観ると、よりいっそう味わいの深まる本篇は、やはり優れた西部劇なのである。



関連作品:

ローマの休日

ベン・ハー

荒野の七人

シェーン

ワイルドバンチ

ワイルド・レンジ 最後の銃撃