『彼女が消えた浜辺』

『彼女が消えた浜辺』

原題:“Darbareye Elly” / 英題:“About Elly” / 監督、脚本、美術、衣裳&プロデューサー:アスガー・ファルハディ / 原案:アスガー・ファルハディ、アザド・ジャファリアン / 製作:シマイェ・メヘル / プロデューサー:マームード・ラザウィ / 撮影監督:ホセイン・ジャファリアン / 編集:ハイェデェ・サフィヤリ / 録音:ハッサン・ザヒデ / ミキシング:モハマド・レザ・デルパック / 音楽:アンドレ・バウアー / 出演:ゴルシフテェ・ファラハニー、タラネ・アリシュスティ、シャハブ・ホセイニ、メリッサ・ザレイ / 配給:LONGRIDE

2009年イラン作品 / 上映時間:1時間56分 / 日本語字幕:太田直子

2010年9月11日日本公開

公式サイト : http://www.hamabe-movie.jp/

ヒューマントラストシネマ有楽町にて初見(2010/10/22)



[粗筋]

 連休、ロースクール時代からの友人である3家族は、イランのテヘランからカスピ海沿岸の別荘地へと車を向けた。休暇旅行には違いないが、彼らにはもうひとつ、重要な目的があった。

 ナジーの兄アーマド(シャハブ・ホセイニ)は現在ドイツに暮らし、現地で結婚していたが、裁判沙汰の挙句に別れる羽目になった。そんな彼に、友人たちは新しい妻を紹介することにしたのだ。

 一同が白羽の矢を立てたのは、アミールとセピデー(ゴルシフテェ・ファラハニー)の娘が通う保育園で先生をしているエリ(タラネ・アリシュスティ)という女性だった。道中、やや引っ込み思案の傾向があるが、細かに気を遣う優しい性格を理解すると、アーマドに相応しい人物だと一同は賞賛する。アーマドも、友人たちの計らいで幾度かふたりきりの時間を得ると、彼女に惹かれるようになっていった。

 ただ、万事がうまく行っていたわけではない。セピデーが手配した貸別荘は、当初3泊する予定だったが、急遽持ち主が訪れることが決まり、1日しか使えなくなってしまった。やむなく一同は、浜辺に立つ朽ちかけた別荘を借りたのである。掃除も余興と楽しんではいたが、セピデーの夫アミールは妻の手際の悪さに内心苛立つ。

 そして滞在2日目、折角親しくなりはじめた矢先に、エリは帰ると言いだした。大手術を終えたばかりの母が心配なので、バスで帰宅する、という彼女に、しかしセピデーは意地でも返さない、とばかり、女性陣たちの買い物に同行してバスのチケットを買うつもりだったエリを、子供の面倒を見てもらうという名目で押し留める。

 その頃、太平楽にビーチバスケと洒落こんでいた男性陣たちのもとに、子供たちが悲鳴を挙げて駆け寄った。子供のひとりが海に入り溺れた、というのである。半狂乱となりながら、どうにか子供を救い出した一同は、だがようやく落ち着いたとき、あることに気づいた。

 エリの姿が、何処にもない。



[感想]

 未だに火種の燻る中東圏の作品、しかも監督は折しも本篇の日本公開中の発言がイラン政府の逆鱗に触れ、最新作の制作許可が取り消される、という状況にある人物と聞くと、抵抗を覚える人もあるだろう。だが、そうした予備知識をもって鑑賞すると、驚くほどに本篇は思想的な色彩がない。

 むろん、私たちが見慣れた邦画やハリウッド産の映画とは明らかに異なる文化は随所に感じられる。小さな娘を除く女性達がことごとくヘジャーブと呼ばれる布を巻き、食事は床にじかに座って取るスタイルを取っている。終盤の悲劇の際、ある人物が求めたのは“祈りを捧げる場所”だった。ところどころに、イスラム教ならではの強い男尊女卑の意識を感じることがある。

 だが、そうしたものはあくまで、この社会を舞台にして描く上での必要に過ぎない。物語と絡み、諷刺や社会批判の意図を籠めた描写も少なからずあるのも確かだが、そのあたりをまったく意識することなく観ても充分に楽しめる。

 いや、楽しめる、という表現は語弊があるかも知れない。楽しむ、と言うには本篇の題材は切実だ。じわじわと、しかし深々と胸に突き刺さってくる。

 本篇の素晴らしさは脚本とその構成の巧みさにある。序盤は、それこそイスラム教という土台がなければ、どこの世界でもあるような若い家族と友人たちとの休暇を描いているだけに見える。性格の違いによる微かな軋轢、妥協の影を滲ませつつも平穏に繰り広げられる彼らの交流はやもすると退屈に感じられるが、それが中盤、子供の事故を境に一変する。動揺の時が過ぎて初めてエリの不在に気づき、どうしても彼女の痕跡が認められないために、一同は更に激しい動揺を示す。

 そして、その過程で判明する細かな嘘や秘密、認識の違いが、うまく折り合いをつけていた一同のあいだに摩擦を生む。最初はエリを死に至らしめた可能性のある子供の親であるペイマンとショーレのあいだに亀裂を作る。だがそのうちに、エリが頼まれていた子守りを放り出して帰った可能性が指摘されると、失踪までは好感を抱いていたはずのエリの人間性に疑問を呈するようになる。そうすると、彼女を招いたセピデーに対して、一同が持っていた信頼感までも揺らいでいく。子供の事故とエリの失踪以外、大きな事件は起きない。にもかかわらず醸成される謎と緊張感の連鎖が実に豊かだ。

 更に、少しずつ変化していく空気と、僅かに判明する新たな事実に基づき起こす彼らの行動が、序盤での出来事と絡んで事態をいっそう昏迷に導いていく。夕食の場で思わず漏らした笑いが非難の対象になり、ゲームで選んだフレーズが憶測の材料となるだけでなく、彼ら自身が知り得なかった出来事さえも、事態を思わぬ方向へと運ぶ。不可避の状況が彼らをいっそう混乱させ、悲劇をより沈痛なものにしていくのだ。たとえ彼らの思想や文化的背景に精通していなくとも、彼らの動揺や嘆き哀しみには共感と憐れみを覚えずにはいられないだろう。

 予想の出来ない展開の果てに辿り着く結末は、だが決して意外なものではない。しかし、それでも観終わった者の胸には、何かが解けていったあとの虚脱感、喪失感があるはずだ。カタルシスと呼ぶには切なく沈痛だが、そこには間違いなく良質のドラマに触れたときだけ生まれる、豊饒な余韻がある。

 舞台はほぼ浜辺の、廃墟一歩手前のような別荘に限られ、絵的には地味なはずなのに、妙に印象深いシーンが多いのも出色である。エンドロールを眺めながら顧みたとき、どうしてなのかに気づくはずだ――カメラワークや些細な編集にさえ、中盤以降の謎と緊張を招くための仕掛けが非常にふんだんに仕掛けられているのだ。特に、エリが消える直前のシーンは、振り返ってみると、さり気なくも計算の行き届いた作りに唸らされる。映像的にも映えるひと幕だが、その描写が観客に与える影響が、完璧に考慮されているのである。

 個人的に、この作品を観て思いだしたのは、アカデミー賞外国語映画部門に輝き、本篇と同年に日本で公開された『瞳の奥の秘密』だ。ほぼ地球の反対側と言ってもいいアルゼンチンで作られたこの作品は、物語の中で20年を超える時を費やし、その蓄積が終盤の衝撃に繋がる、収束の構造を内包している。対して本篇は僅か3日間で繰り広げられるドラマであり、アイディア自体に派手さはないが、カタルシスを演出しつつも多くの謎と豊饒たる余韻を広げて幕を下ろす。『瞳の奥の秘密』とは対極にある構造だが、間違いなく肩を並べるほどに上質のミステリ映画である。



関連作品:

それぞれのシネマ 〜カンヌ国際映画祭60周年記念製作映画〜

ワールド・オブ・ライズ

瞳の奥の秘密