『ニンジャ・アサシン』

『ニンジャ・アサシン』

原題:“Ninja Assassin” / 監督:ジェイムズ・マクティーグ / 原案:マシュー・サンド / 脚本:マシュー・サンド、J・マイケル・ストラジンスキー / 製作:ジョエル・シルヴァーウォシャウスキー兄弟、グラント・ヒル / 製作総指揮:トーマス・タル、ジョン・ジャシュニ、スティーヴ・リチャーズ / 撮影監督:カール・ウォルター・リンデンローブ,ASC,bvk / 美術:グレアム・“グレイス”・ウォーカー / 編集:ジャン・ガンジアーノ、ジョゼフ・ジェット・サリー / 衣装:カルロ・ポジオッリ / 音楽:アイラン・エシュケリ / 出演:Rain、ナオミ・ハリス、ベン・マイルズ、リック・ユーンショー・コスギ、ランダル・ダク・キム / シルヴァー・ピクチャーズ製作 / 配給:Warner Bros.

2009年アメリカ作品 / 上映時間:1時間39分 / 日本語字幕:松崎広幸 / R-18+

2010年3月6日日本公開

公式サイト : http://ninja-film.jp/

新宿ミラノ3にて初見(2010/03/20)



[粗筋]

 千年もの昔から世界の歴史の背後に存在し、特殊な殺人技術を継承、依頼に応じて多くの暗殺を手懸けてきた九つの一族がある。そのうちの一派、役小角(ショー・コスギ)を筆頭とする小角一族は、諸国から孤児を引き取り、過酷な訓練を施して、最強のニンジャ集団を形成している、という。

 まるでお伽噺のようなこの事実を信じる者はほとんどいなかったが、ユーロポールのベルリン支局で科学捜査官として勤務するミカ・コレッティ(ナオミ・ハリス)は、日本の大阪で発生したヤクザの虐殺事件と同時期に、100ポンドの金塊の取引を思わせる不可解な金の流れがあったことに着目、ニンジャの実在の可能性を探りはじめた。

 ミカ直属の上司であるライアン・マスロー(ベン・マイルズ)は当初一笑に付したが、ミカの疑念を裏付けるような証拠を発見すると、彼女に警告する。この深い闇に立ち入るべきではない――だが、ミカは取り憑かれたかのように、未解決の殺人事件や機密情報に積極的に調査のメスを入れていった。

 やがて、マスローの職場にFBIやユーロポールの内務監査室による立ち入り調査が入り、夜遅くに帰宅した自身のアパートが闇に閉ざされているのを目の当たりにして、ようやくミカは自らがニンジャの標的にされかかっていることを悟る。ニンジャたちは影を辿って標的に迫ることを、それまでの調査で知っていた。

 もはや避ける術もなく、ミカはニンジャたちの襲撃に遭う。だが、そんな彼女を別の影が救った。人智を超越した戦いの末にニンジャを下したその男は、雷蔵(Rain)と名乗った……



[感想]

 ハリウッドで、忍者を題材にした映画が作られている、と言われて無邪気に喜べる人は、相当に純粋か、あまりハリウッド映画での“日本文化”の扱いに明るくないかのどちらかだと思われる。往年の忍者映画はいざ知らず、『エレクトラ』に登場する、謎の文化様式を構築した“隠れ里”の様子であるとか、『ファンタスティック・フォー:銀河の危機』のラストに登場する日本様式もどきの結婚式であるとか、その気になって調べていくと呆気に取られるような表現をあちこちで拾うことが出来る。

 ただこういうのは、ハリウッドが日本文化を描いた、と捉えるより、アメリカで吸収され変質した文化を垣間見るぐらいの意識で観た方が恐らく賢明だ。日本人が描いてすら正しい姿になるとは限らないのに、異なった文化圏から眺め、消化したものが原型を見事に留めている、と考えるのは楽観的だし、鑑賞する姿勢としても安易だろう。言ってみれば、伝言ゲームのスタートに近い地点から、ゴール間際の結果を眺めるようなものだ。

 本篇もまた、ハリウッドが吸収し、独自に消化した“ニンジャ”という様式を描いた作品として鑑賞するべきであり、その意味では非常に芯が通っている。そもそも“ニンジャ”の出所が日本であるとはひと言も触れていないし、組織が攫い教育を施している弟子たちは男女も国籍も入り乱れ、会話も英語が主体となっている。下手な日本語を使うような誤魔化しは行っていない。

 その一方で、随所に“忍者”というものの様式美が留まっている。かなり扱い方は独特だが、日本刀に手裏剣、鎖鎌を用いた戦い方に、夜の闇に紛れ、影を辿って暗殺対象に肉迫するスタイルなどは日本人の知る“忍者”像に近い。個を捨て一族に奉仕するという精神のあり方にも、武士道が独自の変化を遂げたようなイメージが窺える。

 そして、少なくとも変化させたなりに、本篇の描き方には筋が通っている。“ニンジャ”という特殊技能集団が現代まで生き残るとしたらどんな姿なのか、その組織において守られている伝統、掟はどんな形であるべきか。一族の掟というプレッシャーのなかで、心優しい青年がどんな成長を遂げていけば、反逆者となり得るのか。

 率直に言って、反逆者になる過程にもう少し伝わりやすさが欲しかった、という嫌味はあるが、本篇の描き方には概ね芯が通っているし、これを“ニンジャ”と言われてもさほど抵抗を感じない。伝言ゲームとしては成功した部類に属するだろう。それも、『マッハGoGoGo』を『スピード・レーサー』としてリメイクしたウォシャウスキー兄弟が製作に就き、市川雷蔵主演の忍者映画に影響を受けた、と標榜するジェイムズ・マクティーグが監督に就いたことが幸いしているに違いない。

 何より、本篇はアクション・シーンの充実ぶりが素晴らしい。超人的な技能を備えた者たちの戦いが随所で力強く、そして容赦なく描かれており、何度も瞠目させられる。明らかにワイヤーやCGを多用しているが、そうでなければあり得ない趣向が多くあることはむしろ高く評価すべきだろう。照明の落とされた部屋の中で縦横無尽に動き回り、ペンライトの中に時折浮かび上がる壮絶な肉弾戦に、車が激しく行き交う一般道で繰り広げられる戦いなど、“ニンジャ”という設定があってこそ受け入れられるアイディアがふんだんに盛り込まれているのだ。

 物語の構造自体はシンプルだが、それを主人公・雷蔵の現在と過去、そして“ニンジャ”を追う科学捜査官という3つの視点を交互に描くことで牽引力を増している。ところどころに存在するツッコミどころを、アクションを絡めることによりさほど意識させず、あっという間に観る者を惹きこむ勢いに繋げているのも巧妙だ。アクションそのもののアイディアが優れており、描写がパワフルである分、プロットに過剰に凝らなかったのは正解だろう。

 と、全体的に私は高く評価する本篇だが――しかし、クライマックスの展開はさすがに苦笑いを禁じ得ない。その推移自体に伏線は張ってあるのだが、状況があまりに非現実的すぎる。ここまでは細かなつっこみどころを意識的にであれ無意識にであれ見逃してきた人であっても、ここは気になるところだろう。未見の方のためにとりあえず伏せておくが、仮に気づかなかったとしても、説明すれば何が変なのかはご理解いただけるはずだ。どう考えても、あれは異様だ。

 クライマックスの壮絶な戦いの光景も、そこまでに築きあげた価値観を自ら破壊するようなものとも捉えられ、不満を抱く向きもあるだろう――ただ、経緯はともかく、私自身はああいうクライマックスはありだと思う。その中できっちり、あるべき最終決戦もきちんと盛り込まれているのだから、その手抜かりのなさは褒めるべきだ。

 同じ監督の前作『Vフォー・ヴェンデッタ』のような思索的な構造を期待すると肩透かしだが、あの作品のアクション描写の乏しさに不満を抱いていたなら、本篇のほうが性に合うかも知れない――そして恐らく監督自身がそれを意識していたことは、クライマックスである人物が漏らすひと言が明白に象徴している。『V〜』を観た人ならば、因縁の戦い直前で確実にニヤリとしてしまうはずだ。

 終盤の展開で、そこまで評価していた観客の不興を買う危険を冒してしまっているのはいただけないものの、しかし“ニンジャ”という様式美を、過剰に原典に傷をつけることなく独自に膨らませ、そこをベースにCGやワイヤーを使ったからこその迫力が味わえるアクションをふんだんに採り入れた作品、と捉えれば充分に満足のいく仕上がりである。



関連作品:

Vフォー・ヴェンデッタ

スピード・レーサー

チェンジリング