『12人の怒れる男』

『12人の怒れる男』

原題:“12” / 監督:ニキータ・ミハルコフ / 脚本:ニキータ・ミハルコフ、アレクサンドル・ノヴォトツキイ=ヴラソフ、ブラディミル・モイセイェンコ / 製作:ニキータ・ミハルコフ、レオニド・ヴェレシュチャギン / 撮影監督:ヴラディスラフ・オペリヤンツ / 美術:ヴィクトル・ペトロフ / 編集:アンジェイ・ザイツェフ、エンツォ・メニコニ / 衣装:ナタリア・ジュベンコ / 音楽:エドゥアルド・アルテミエフ / 出演:セルゲイ・マコヴェツキイ、ニキータ・ミハルコフ、セルゲイ・ガルマッシュ、ヴァレンティン・ガフト、アレクセイ・ペトレンコ、ユーリ・ストヤノフ、セルゲイ・カザロフ、ミハイル・イェフレモフ、アレクセイ・ゴルブノフ、セルゲイ・アルツィバシェフ、ヴィクトル・ヴェルジビツキイ、ロマン・マディアノフ、アレクサンドル・アダバシャン、アプティ・マガマイェフ / 配給:HEXAGON PICTURES×Annie Planet

2007年ロシア作品 / 上映時間:2時間40分 / 日本語字幕:古田由紀子

2008年08月23日日本公開

公式サイト : http://www.12-movie.com/

日比谷シャンテ・シネにて初見(2008/09/06)



[粗筋]

 審議は極めて淡々と進められた。チェチェンの少年・ウマル(アプティ・マガマイェフ)が義父を殺害、金を奪って逃げたことは証言・物証から明白であり、陪審員12名による評議も速やかに決着するのでは、と思われた。

 改装中の陪審員室に代えて、隣接する小学校の体育館に12名が閉じ込められての評議は、既に何度もこの流れを経験している芸術家の陪審員1(ニキータ・ミハルコフ)が議長となって、早速採決が行われた。有罪と思うなら、挙手。一斉に手が挙がり、もう決着だ、と全員が席を立とうとしたとき、ひとりの男――陪審員2(セルゲイ・マコヴェツキイ)が異を唱えた。自分は、有罪には賛成できない。

 強硬な差別主義者である陪審員3(セルゲイ・ガルマッシュ)を中心に色めき立つなか、陪審員2はこのまま何の議論もなく、ひとりの若者の一生を奪う評決を出してしまうことへの躊躇を口にする。もっと議論すべきではないか? 特にそれ以上の主張もない彼に一同は失笑し、最終的に陪審員2が出した妥協案――残る11人でふたたび採決を行い、全員が有罪に票を投じたなら自分も従う、と。

 結論を他人に委ねた、卑怯な提案だと指摘する者もあったが、要望通りに2度目の決が採られた。紙に有罪・無罪のいずれかを明記して、陪審員1が開票する形式を取ったが、結果は……10対1。陪審員2のさほど説得力もない、と感じていた理屈に、陪審員4(ヴァレンティン・ガフト)が賛同したのだ。彼が有罪に疑問を抱いた根拠は、無気力で証人に対してろくに追求もしなかった弁護士の態度であった、という。あれではきちんと審議が行われたとは言いがたい。

 廷吏(アレクサンドル・アダバシャン)が「20分程度で済むでしょう」と推測した評議はこうして、予想外の長時間に及んでいく。果たして少年は、有罪か、無罪か――その行方は、もはや陪審員たちにも解らなかった……



[感想]

 最近こそあまり数はないが、映画には法廷ドラマというジャンルが存在する。裁判の模様や陪審員たちの評議の様子を中心に、密室での会話劇を軸にある出来事を掘り下げていくこの手法を定着させたのは、名匠シドニー・ルメット監督による『十二人の怒れる男』であった。本篇は同作を下敷きに、舞台を現代のロシアに移してリメイクしたものである。

 そういう経緯ゆえ、出来れば原典を鑑賞したうえで劇場に足を運びたかったが、様々な都合で間に合わず、ほとんど予習もなく観ることになった。結果としては、旧作のイメージに囚われることなく鑑賞できたのは幸運だと思ったのだが、ロシアの社会情勢について多少なりとも予備知識を増やした上で観るべきだったと悔やまれる。

 本篇の背景には、ロシアという多民族国家が抱えるジレンマや、チェチェン戦争にまつわる感情などが深く関わっている。容疑者となる少年はチェチェン戦争に関連する争いのなかで両親を失い、その傷を心にまで負った境遇だ。陪審員のひとりはそんな彼を“チェチェンのガキ”と言い、あからさまな偏見を向けている。他にもユダヤ人に対する偏見や、民族間での複雑な価値観の差違が随所に見受けられ、少しでも学んでおけば序盤からより深く吟味することが出来ただろうに、と思うのだ。

 しかし、そうした背景に精通していなくとも、登場人物たちのやり取りから推察することは充分に可能だし、その奥行きを堪能することは可能だ。収入の多寡を問わず集められた陪審員たちの背景に丁寧な計算が施され、それが噛み合って奇跡のような流れを形成していく、その様が既に圧巻である。

 意外だったのは、最初のほうでは少年の容疑についてあまり評議をしていないことである。上の粗筋で示したように、そもそも疑義を呈した人物の主張は、「議論をせずに評決を出してしまうことへの不安」がポイントであったし、次の人物は証言や物証そのものよりも、そこにある疑問に突っこんでいかなかった弁護士への違和感から無罪に論を変える。最初のほうはこんな感じで、観客は事件の全容さえ掴めない。

 無罪に鞍替えする人物が半数に近づいたあたりからやっと証拠物件や証言の検証に入るが、ミステリ愛好家としてはちょっと掘り下げが甘く恣意的だ、と言わざるを得ない。如何せん、登場するのは凶器と目されているナイフと一部の証拠写真ぐらいで、あとは裁判記録に頼るしかないわけであり、その範囲で行動の速度を推測したり、更にはかなり大胆な憶測まで用いる始末で、決して充分な検証とは言いがたいのだ。

 ただ、そもそも陪審員の使命は、真相を究明することではなく、被告人の罪を確定することである。有罪とするに足る根拠がなければ、有罪を選択するべきではない。つまりここで必要なのは証言や証拠物件が被告人の有罪を立証するものなのか確かめることであり、それが信じられないのなら無罪に評を投じることだ。そのためには真犯人を断定する必要はない。そう考えれば、この場ではっきりとした真相を提示しないのは至極真っ当な姿勢である。

 むしろ本篇の真骨頂はこの先と言ってもいい。終盤である人物が、自らが有罪に投じた意外な理由を語る。そしてこのときの論旨こそ、法廷ドラマの面白さと、現実に法というものが孕む限界をも示している。ロシアという国家の現状を色濃く描き出しながらも、終盤における主張と周囲の人物の反応とは、決してロシアのなかだけで成立するものではない。発想は極めてフィクション的だが、その意図には国家を越えたリアリティが存在する。

 こと、社会的背景のまるで異なる日本人にとっては、終始そのあたりを類推しながら事件の繋がりを読み解いていかねばならず、観ているだけで一部始終が理解でき、最後に明瞭などんでん返しが待ち受けているようなサスペンスを法廷ドラマに求めているような向きには間違いなく不満を残す仕上がりであり結末であろう。だが、そうした作品に飽き足らないものを感じている方であれば、挑んでみる価値のある1本だと保証しよう。

 最後に付け加えさせてもらうなら、そもそも本篇は“解決”することに重きをおいていない。それは評決のあと、作中のとあるモチーフを締めくくるためのひと幕で、ある人物が口にする台詞が証明している。

 未だにオリジナルを観ていないことは悔やまれる。だが、オリジナルを観ていなくてもこれだけは断言できる。本篇はオリジナルの良さを消化し、きちんとロシアという国の現状に馴染ませて構築された、現代の法廷ドラマの傑作である。