『山桜』

『山桜』

原作:藤沢周平(『時雨みち』新潮文庫・収録) / 監督:篠原哲雄 / 脚本:飯田健三郎長谷川康夫 / 製作:川城和実、遠谷信幸、遠藤義明、亀山慶二 / 企画:小滝祥平、梅澤道彦、河野聡、鈴木尚 / 撮影:喜久村徳章 / 照明:長田達也 / 美術:金田克美 / 装飾:大坂和美 / 編集:奥原好幸 / 視覚効果:松本肇 / 助監督:山田敏久 / 音楽:四家卯大 / 主題歌:一青窈『栞』(Columbia Music Entertainment) / 出演:田中麗奈東山紀之篠田三郎檀ふみ富司純子北条隆博南沢奈央高橋長英千葉哲也永島暎子樋浦勉村井国夫 / 配給:東京テアトル

2008年日本作品 / 上映時間:1時間39分

2008年05月31日公開

公式サイト : http://www.yamazakura-movie.com/

TOHOシネマズ西新井にて初見(2008/07/08)



[粗筋]

 独り身のまま生涯を終えた叔母ふみの墓参りを済ませた帰り、野江(田中麗奈)は見事に咲き誇る山桜を見つけた。枝を一本持ち帰ろうと梢の下で背伸びをして届かない彼女の後ろから、「手折って進ぜよう」とひとりの心根の優しそうな侍が手を伸ばす。枝を差し出したその侍は、手塚弥一郎(東山紀之)と名乗り、覚えておいででないか、と問いかけた。確かに野江は覚えていた。いまの磯村の家に嫁ぐ前に、いちど縁組みの話が持ち上がった相手だった。その時は、剣術に優れた男という評判に、かつて死別した夫の野卑な友人を重ねて拒絶してしまったのだが、目の前にいる男は想像とまるで異なっていた。去り際に弥一郎に「いま、お幸せか」と問いかけられて――野江は、咄嗟に頷くことが出来なかった。

 野江の嫁いだ磯村家は、家格としては野江の実家である浦井家よりも劣るが、高利貸しをしていて金は蓄えている。舅の左次衛門(高橋長英)は金を返せないものを嘲り、夫の庄左衛門(千葉哲也)は藩の農政を取り仕切る諏訪平右衛門(村井国夫)に取り入って資金援助を得、更なる利益を求めようとしていた。彼らの業突ぶりと、姑・富代(永島暎子)の人を人とも想わぬ扱いに苦しめられながら、出戻りの自分を嫁がせてくれた実家に迷惑はかけまいと野江は耐え忍んでいた。

 磯村家が取り入ろうとしていた諏訪は、農政を取り仕切る立場を利用して私腹を肥やしていることで、藩でも悪評の高い人物である。藩は三年前に冷害に見舞われ、その影響を未だに脱しきれていないために石高不足に悩まされている。そこで諏訪は起死回生の策として、荒れ地を開墾し将来の石高の確保に努めることを提案するが、その代わりに収穫の減ったいまの農民に対し、従来と同じ年貢を要求するという、あまりに酷な条件を追加した。理性のある者は農民を疲弊させ豪農の私腹を肥やすだけだと反駁するが、諏訪は自らの家名を笠に着て、自らの政策を強行する。

 弥一郎は農村を繰り返し回り、季節を追うごとに疲弊していく姿を目の当たりにしていた。餓えと病で死んだ娘を弔う農民の姿を前に、彼はとうとう壮絶な覚悟を固めた。取り巻きと共に城をあとにする諏訪の前に弥一郎は立ちはだかり、刀を抜く……



[感想]

 原作はわずか20ページ程度の、極めて短い作品である。現代にも通じる苦しみに喘ぎ、それでも節度を保って生きようとする人々の姿を優しい筆致で描き出した、藤沢周平ならではのエッセンスが詰まった好編であるが、如何せん最小限の尺しかないので、これを100分前後の長篇映画として仕上げるには、どうしても追加の描写が求められる。作品を読んでいけば、付け足す部分の想像はつくのだが、それでもまだ足りない部分をどう補うのかが、映画化にあたっての鍵と言えた。

 監督は、『木曜組曲』『地下鉄(メトロ)に乗って』と小説作品を丁寧に映像化した経歴のある篠原哲雄であるが、しかし時代劇はこれが初挑戦ということである。脚色の手腕については期待が持てる一方で、やはり不安も多少は残るところだった。

 そうしてようやく観ることの出来た本編は、しかし期待以上に丁寧で、完成度の高い“藤沢周平映画”に仕上がっていた。

 まず、いちばん気になっていた尺の膨らまし方は、概ね予想通りであったが、過剰に付け足しを行わない節度の保った脚色ぶりで、原作の雰囲気をまったく損なっていない。原作に独自で構築していったリアリズムを付与していった山田洋次監督による三部作とは異なるアプローチだが、忠実という意味ではむしろ山田監督のそれを上回っている。足りない部分は日常の細々とした所作や繊細な表情、そして四季折々の情景を織りこんでいくことで埋めているが、雰囲気も流れも淀みがなく、手頃な尺も手伝って間延びした印象はない。

 監督同様に、映画での時代劇は初挑戦であったという田中麗奈の佇まいも、予想していた以上にこの世界観に溶け込んでいる。先日まで放映されていた『猟奇的な彼女』では凶暴でキュートな女性を好演していたが、本編では一転して、江戸期の武家社会の価値観によって苦しめられながらも、幸福に想いを馳せて凜と生きようとする女性を見事に演じている。自らを苦しめる夫に謗られるほどの強い眼差し、内職をしているときと庭仕事を手伝うときとの表情のメリハリ、そして終盤の不安と幸福がない混ざったような絶妙な佇まいと、幅広い演技により見事に作品の軸の役割を果たしている。

 もともと純和風の美男として知られる東山紀之も、その魅力を遺憾なく発揮している。実は決して出番は多くないのだが、それゆえに一瞬で魅せる殺陣の腕と、勘所で存在感を示す必要のある役柄であり、その意味で理想的な配役と言えるだろう。他の配役もまた絶妙であったが、特に秀逸だったのは弥一郎の母を演じた富司純子である。彼女が登場するのは終盤、ほんの20分以内の話だが、そのわずかな時間で一気に作品の空気を支配してしまっている。弥一郎の母と野江とが初めて出逢ってからの短いやり取りは、そこだけでも出色の一場面であった。

 織りこまれた情景の美しさも、藤沢周平の作品世界を巧みに再現している。弥一郎が農村を巡るたびに荒廃していく田畑の様子自体がリアルでありながら絵的な美観を損なわない一方、現代的な要素の一切混入しない四季折々の光景の美しさを丹念に捉えていって、生々しさとは異なる情緒をも刻みつけているのだ。

 斯様に丁寧に丁寧に物語の世界を再現していった結果、原作を読んだ者には、本来描きようのない“地の文”まで鮮明に脳裏に蘇るほどの仕上がりとなっている。とりわけクライマックス、辿ってきた日々の結果として見出した感慨に野江が涙するとき、地の文において綴られた想いがきちんと見えてくるのである。当たり前のようでいて、表現に揺れがあっては決して辿り着けない境地である。その完成度は、恐らく原作を知らなくとも、野江の心情を汲み取ることは不可能ではないだろう、と信じたくなるほどだ。

 藤沢作品にたびたび登場する海坂藩の風土を構築し、方言までも作りあげていった山田洋次監督の三部作と比較するといささか素直すぎ、独自の工夫がもうひとつ欲しかった嫌味もあるが、しかしそれはさすがに欲張りすぎるだろう。原作を読んだうえで臨んで不満なし、原作をまったく知らなくとも、情緒と気品に富んだ時代劇を好む向きであれば惚れること確実と思われる、優秀な日本映画である。