『セールスマンの死(1951)』

『セールスマンの死(1951)』本篇映像より引用。
『セールスマンの死(1951)』本篇映像より引用。

原題:“Death of a Salesman” / 原作:アーサー・ミラー / 監督:ラズロ・ベネディク / 脚本:スタンリー・ロバーツ / 製作:スタンリー・クレイマー / 撮影監督:フランク・プラナー / プロダクション・デザイナー:ルドルフ・スターナッド / 美術監督:キャリー・オデル / 編集:ハリー・W・ガースタッド、ウィリアム・A・ライオン / 音楽:アレックス・ノース / 出演:フレデリック・マーチ、ミルドレッド・ダンノック、ケヴィン・マッカーシー、キャメロン・ミッチェル、ハワード・スミス、ロイヤル・ビアール、ドン・キーファー、ジェシ・ホワイト、クレア・シャールトン、デヴィッド・アルパート / 初公開時配給:コロンビア・ピクチャーズ / 映像ソフト日本最新盤発売元:ジュネス企画
1951年アメリカ作品 / 上映時間:1時間55分 / 日本語字幕:?
1952年11月29日日本公開
2009年10月26日映像ソフト日本最新盤発売 [DVD Video]
DVD Videoにて初見(2023/6/7)


[粗筋]
 ウィリー・ローマン(フレデリック・マーチ)は疲れきっていた。63歳となる現在までセールスマンとして勤めてきたが、近ごろは売上が乏しい。かつての得意先はみな引退するかこの世を去り、いまや基本給のみの、新人と同様の扱いを受けている。妻リンダ(ミルドレッド・ダンノック)からは家のローンに保険金、そして冷蔵庫の修理費用と、日々の支払が足りないことを訴えられるが、それに見合う収入に辿り着けていない。
 この頃は車の運転もままならず、闇雲にスピードを出してしまうことを恐れ、家まで長い時間を費やし辿り着いたその日、家には長男のビフ(ケヴィン・マッカーシー)が久々に帰っていた。高校時代はフットボール・リーグのホープとして、複数の大学から奨学金つきで勧誘されるほど期待されていたが、その後はぱっとせず、各地で発送係や牧童をして辛うじて糊口をしのいでいる。その落魄ぶりに、ウィリーはますます鬱屈を募らせ、華やかなりし過去の追想に縋ってしまう。隣人であり友人でもあるチャーリー(ハワード・スミス)が気晴らしを提案しても、苛立ちから口論になるのだった。
 しかし翌る日、ビフが生活の基盤を固めるべく事業を興すことを考えている、と打ち明けられると、ウィリーは途端に上機嫌になった。自身も、心身共に負担の重い外回りの仕事から、事務職への転換を考える。家に自家用車を残して、地下鉄で会社まで赴くが――


[感想]
 当時極めて高い評価を受け、今もなお各地で再演されているアーサーミラーによる戯曲を、1951年に映画化した作品である。
 ただ、観ていると「これは本当に舞台で上演しているのか?」と不思議に思うことが幾度もある。舞台は主人公の家がメインではあるが、車中の出来事を見せたり、出張先のひと幕が織り込まれたりと決して縛られていない。舞台装置を転換したり、舞台上に複数の空間を設けて、登場人物が移動することで相前後する出来事を舞台の流れに載せて描く、といった方法で表現することも可能だが、本篇は出来事が途切れることなく、別の時間、別の場所へと移っていくそのさまが、まるで幻想、妄想の世界を漂うかのようだ。
 これが一般的にどのように解釈されているのかは把握しないまま鑑賞したのだが、私には本篇の主人公ウィリー・ローマンはいまで言う認知症を患っていたのではないか、と思われてならない。冒頭の、取引先から自宅まで戻るのに異常に時間がかかったというくだり、回想らしきシーンの連続から現在に戻ると、そのときの記憶が戻って夜更けに苛立ちを爆発させる。家族の制止も聞かずに、無分別な行為に及んでしまう。調べてみると、アルツハイマー病などの認知症に繋がる疾病は19世紀には確認され、本篇の舞台となる1940年代にはかなり進んでいたそうだが、一般市民への医療知識の浸透度を情報伝達の早さを考慮して推測すると、まださほど理解は進んでいなかったのではないか。ゆえに、客観的には既に危険な段階に進行していたとしても、強引に仕事をリタイアさせたり、施設に入れることは難しい。
 ましてこの時代のアメリカは完全なる家父長制の社会観に囚われている。ウィリー・ローマンは自らの能力が著しく落ちていることを自覚しながらも、家長としての権威を保つため、そして社会的成功を収めるためことに固執してしまう。そして、思うままにならない現状に言動が荒々しくなる。かつてはウィリー自身の軽率な(現代の目線で捉えればだが)言動によって将来の芽を摘んでしまい、いまだうだつの上がらない息子2人の意見に苛立つのも、過去に自覚した後悔が現在のことのように蘇り、ウィリーに虚勢としての大きな声を出させる、と考えると辻褄が合う。しばしば冷静さを取り戻すのも、認知症の病態として不思議はない。
 本篇の原型となる戯曲を執筆したアーサー・ミラーがこうしたことを考えていたか、は私には謎だが、もし知らなかったとしたら、その観察力に敬服するほかない。そのくらい、本篇の主人公の言動は、認知症を患った人物の言動を的確に押さえている。
 だが、その点を抜きにしても、ウィリー・ローマンの言動は虚しく憐れだ。己の能力と権限を過大評価し、自らの意向に歯向かう家族や友人には居丈高に振る舞うが、色好い言葉を期待して訪れた人びとにすげなくあしらわれ失意に陥る。誇りをもって務めてきたセールスマンとしての人生が、ほんの数時間のうちに否定されていくのである。もっとウィリーの価値観が違っていれば、己の衰えを素直に受け入れることが出来たなら、物語の終盤も結末もまるで違ったものになっていただろう。
 本篇は、アメリカという社会が培ってきた家父長制のマッチョ型価値観に束縛された者の悲劇、という性質が強いように私には映る。アメリカに限らず、男性優位の社会はしばしばこういう感覚に囚われ、時代とともに変化していく価値観、経済感覚に適応出来ず、軋轢を生じるものだ。日本でもかつては、似たような光景があちこちで繰り広げられていたはずだ――いや、まだ過去の話ではない、というところもあるだろう。
 如何せん70年以上前の作品なので、演技の印象は古い。演技というのは思う以上にそれぞれの時代のテンポ、トーンを反映しているので、そこは時の流れと許容するとしても大仰な台詞回しにも現代となっては違和感が否めないところだ。しかし、本篇の主題と、描かれる人間像のリアリティは依然として損なわれていない。だから、僅かな救いはあっても物悲しさの勝る結末がいまなお沁みるのだ。
 前述の通り、戯曲としては未だに世界各地で再演されている。映像作品としても、脚色を施すなどして作り直されているのも当然だろう。それゆえに、もはやこの1951年版が果たした役割は終わりつつあるのかも知れないが、よりリアルタイムに近い時代の肌触りを留めた作品としての価値は不滅だろう。


関連作品:
理由(1995)』/『明日に向って撃て!
エデンの東』/『ファーザー(2020)

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