『終戦のエンペラー』

TOHOシネマズ西新井、スクリーン4入口に掲示されたチラシ。

原題:“Emperor” / 原作:岡本嗣郎『終戦のエンペラー 陛下をお救いなさいまし』(集英社・刊) / 監督:ピーター・ウェーバー / 脚本:デヴィッド・クラス、ヴェラ・ブラシ / 製作:奈良橋陽子、ゲイリー・フォスター、野村祐人、ラス・クラスノフ / 撮影監督:スチュアート・ドライバーグ / プロダクション・デザイナー:グラント・メイジャー / 編集:クラス・プラマー / 衣装:ナイラ・ディクソン / キャスティング:奈良橋陽子、ジェーン・ジェンキンス / 音楽:アレックス・ヘッフェス / 音楽監修:デイヴ・ジョーダン / 出演:マシュー・フォックストミー・リー・ジョーンズ初音映莉子西田敏行羽田昌義火野正平中村雅俊夏八木勲桃井かおり伊武雅刀片岡孝太郎 / 配給:松竹

2013年日本、アメリカ合作間 / 上映時間:1時間47分 / 日本語字幕:石田泰子 / 字幕監修:茶谷誠一

2013年7月27日日本公開

公式サイト : http://www.emperor-movie.jp/

TOHOシネマズ西新井にて初見(2013/08/31)



[粗筋]

 1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下、それから間もなく日本は、連合国軍の支配下に置かれた。

 統治のため、皇居の前にGHQの拠点が設けられると、同月30日には司令官としてダグラス・マッカーサー元帥(トミー・リー・ジョーンズ)が着任する。マッカーサーの指揮下、GHQがまず実施したのは“戦争犯罪者”の逮捕と裁判である。人類史上最悪、といわれる戦争にひとびとを先導し、多くの犠牲者を出した責任は誰にあるのか、を特定し、速やかな新体制の確立を図ろう、という計画だった。

 開戦時の首相であった東条英機(火野正平)をはじめ、戦時中に重職に就いていた者を次々と押さえていくなか、問題となったのは、天皇(片岡孝太郎)の処遇である。日本人が崇敬し、その勝利のために命をも惜しげなく捧げたこの人物に、責任はないのか? 本来なら直々に捜査官が事情聴取すべきところだが、GHQ本部の目の前の皇居は未だ固く警護され、迂闊に立ち入ることが出来ない状況にある。

 そこでマッカーサー元帥は、ボナー・フェラーズ准将(マシュー・フォックス)に調査を一任する。フェラーズ准将は開戦直前の日本に滞在した経験もあり、国民性をも理解した日本通として知られていた。

 フェラーズ准将はまず、巣鴨刑務所に収容されている東条英機に面会し、天皇が訴追を免れるために必要な3人の証人を提示するように求める。東条が示したのは、開戦前に辞任した元首相・近衛文麿(中村雅俊)。

 フェラーズの訪問を受けた近衛は、自身が辞職した背景を語る。彼は開戦3ヶ月前、秘密裏に米国側に接触し、戦端が開くことを避けようとしたが、国務省から拒否されていたのだという。戦争は決して敗者だけに責任を転嫁できない――返す言葉を失うフェラーズに、しかし近衛は、天皇の相談役としての役を担っていた内大臣木戸幸一(伊武雅刀)の名を挙げ、話を聞くように促す。

 近衛からも決定的な証言が得られなかったフェラーズは木戸との面会に望みを託すが、しかし木戸は待ち合わせをした料亭に姿を現さなかった。天皇の言動を記録に留めない、という日本独特の敬意の払い方がゆえに、フェラーズの調査は行き詰まってしまう……

[感想]

 最近はテレビを観ない、というひとも増えているが、およそテレビにある程度親しんでいるひとであれば、トミー・リー・ジョーンズの顔には馴染んでいるはずだ。宇宙人というキャラクターで長年に亘ってCM出演を続けており、本篇公開後にも新作が放送されている。プロモーションでの来日は多くない印象だが、一連のCM撮影で来日しているとも言われ、日本には親しんでいるようだ。

 そんな彼が、終戦後の日本史にとって重要な立ち位置を占めるマッカーサー元帥を演じる、という話が聞こえてきたときから、私は本篇に関心を抱かずにいられなかった。諸般事情で鑑賞するタイミングがだいぶ遅くなってしまったが、本当なら公開直後に鑑賞したかったほどである。

 だが、いざ公開されたあとの評判は、正直なところあまり芳しくはなかった。視点人物であるフェラーズの恋愛にまつわるエピソードが邪魔、という指摘をあちこちで見かけた。トミー・リー・ジョーンズが演じたマッカーサーについての評価ではなかったし、言い換えれば別の評価が成り立ちそうだが、そのせいで若干尻込みしてしまった感も否めない。

 しかし、やはり作品を評価したいなら、きちんと実物に接するべきだ。公開から1ヶ月以上を経て、だいぶ上映館・上映回数は減ってしまったが、ふだん訪れる劇場で辛うじてかかっていたので、ようやく余裕が出来たのを幸い、鑑賞したわけである。

 ……率直に言って、確かにラヴストーリーは要らない。

 いや、しかしまったく不要だったか、と言われると、それは否定しておきたい。あのくだりはどうやら創作のようだが、フェラーズの行動原理としては充分に意味を為している。在学中に日本人女性との交流があり、その際にラフカディオ・ハーンの書籍を紹介されて日本についての知識を深めた、という話が、ハーンの孫である小泉凡氏がパンフレットに寄せた文章に記されており、そうした背景を膨らませて、恋愛のエピソードを組み込むのは脚色として悪くない。

 ただ、尺を割きすぎなのだ。何故、日本人の精神的支柱であった天皇が、戦犯として告発されなかったのか? という謎だけでも題材として充分に魅力的であり、そちらに焦点を絞ってもよかったはずなのに、なまじフェラーズの恋愛について、馴れ初めから語り、彼女の運命を巡る軽い謎解きまで含めてしまったため、焦点がぼやけてしまった。たとえば、天皇が裁かれなかった理由を不足なく説明しても尺が足りない、というものであったならまだしも、本篇では明らかに説明が不充分なのだから、欠点として捉えられるのも致し方のないところだろう。

 この点を省けば、決して不出来な内容ではない。なぜ天皇東京裁判の対象から外されたのか、という、日本人でも知らないひとが多い秘密に踏み込み、それを日本人にとって違和感のない手管で読み解いていくあたりには好感が持てる。如何せん、説明が不充分であるため、日本人であっても「これで外してよかったのか?」という疑問を抱く程度に留まってしまっており、恐らく日本に対してまったく親しみを持たないひとびとにとっては謎のままだろう、というのが惜しまれるが、日本人独特の精神性を配慮した決断だったことがしっかりと窺える語り口には、研究のあとが窺える。

 プロデュースやキャスティングに日本のスタッフが加わっているせいもあって、“日本人に見えるアジア人”ではなく、日本で名の通った俳優が多くキャスティングされ、名前のない人物や背景にもきちんと日本の空気が採り入れられている点も出色だ。例によって「富士山少しでかすぎないか?」という場面もあるにはあるが、あれはもはや日本を描く際の記号と捉えたほうがいいだろうし、おおむね終戦直後で荒廃しているせいもあるが、背景や美術に「ここは日本ではない」という抵抗感を与えないのは、ストーリーの扱いとともに、従来のハリウッドが描いてきた日本と比べ、遥かにリアリティが感じられる。

 日本を悪人として描いていないことはもちろん、すべて善人として描いているわけでない、その絶妙さも評価したい。通訳としてフェラーズと行動を共にする高橋(羽田昌義)のように己を殺して尽くす者ばかりでなく、過剰なまでに日本人のステレオタイプな精神性を体現した者もいれば、支配者側の人間であるフェラーズに敵意を示す無名の人物も描かれる。この公平な姿勢はアメリカ軍のなかを描く際にも徹底しており、天皇の戦争責任を追及することを最初から訴え続ける者がいる一方で、マッカーサーをただ先見の明がある指導者として美化するのでなく、のちの大統領選出馬を睨み、パブリック・イメージを意識した言動をする人物であったこともきちんと盛り込んでいる。トミー・リー・ジョーンズの備える貫禄と独特の愛嬌がこの人物像にマッチして、毅然としながらも人間味が感じられるのだ。

 実のところ、問題視されている恋愛描写にしても、もっとごく断片的な描写に留め、たとえば最後の最後でフェラーズの行動原理として存在していたことが仄めかされる、程度に留めていれば、恐らく反感を抱かれなかったのではなかろうか。惜しまれるのはその匙加減ぐらいのものである。

 本篇での東京裁判と、GHQによるその采配、またそうして敗戦国となった日本を翻弄する連合国軍への日本人の態度など、そうした描写には、単純な勧善懲悪では割り切れない“戦争”というものの厄介さが見事に描かれている。確かに恋愛描写を削り、もっと天皇という存在が日本人にとってどんな意味を持っていたのか、それをマッカーサーらがどのように判断したのか、を浮き彫りにしていれば、より優れた作品に仕上がったのでは、と惜しまれるが、題材やその姿勢は高く評価できるし、銃声の戦争映画とは異なる切り口は、静かな感動をもたらすと共に、観る者が戦争というものについて一考する、いいきっかけになり得る。

関連作品:

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