『1911(字幕)』

『1911(字幕)』

原題:“辛亥革命 1911” / 総監督:ジャッキー・チェン / 監督:チャン・リー / 脚本:ワン・シントン、チェン・バオクアン / 撮影監督:ホァン・ウェイ / 美術監督:チャオ・ハイ / プロダクション・デザイナー:チェン・ミンチョン / 編集:ヤン・ホンユイ / アクション指導:ウー・ガン、JCスタントチーム / 音楽:ディン・ウェイ / 出演:ジャッキー・チェンリー・ビンビン、ウィンストン・チャオ、ジョアン・チェン、ジェイシー・チャン、フー・ゴー、ニン・チン、スン・チュン、ジャン・ウー、ユィ・シャオチュン、デニス・トー、ウェイ・ツォンワン、ホアン・チーチョン、ワン・ツェイワェイ、サイモン・ダットン、メイ・ティン / 配給:東映

2011年中国作品 / 上映時間:2時間2分 / 日本語字幕:遠藤壽美子

2011年11月5日日本公開

第24回東京国際映画祭特別オープニング作品として上映

祝!ジャッキー・チェン100作突破!大成龍祭2011presents「東京国際ジャッキー映画祭」上映作品

公式サイト : http://www.1911-movie.jp/

TOHOシネマズ六本木ヒルズにて初見(2011/11/05)



[粗筋]

 清朝は、その長い歴史に、間もなく終止符を打とうとしていた。弱体化した為政者たちは押し寄せる列強の武力を前になす術がなく、今や中国は分裂の危機にある。この状況においてなお、民衆をないがしろにする朝廷の振る舞いに、いつしか中国の国内外で、“革命”の名のもとに力を結集しようとする者たちが現れていた。

 中でも最も重要な人物が、孫文(ウィンストン・チャオ)である。彼は外遊し、各国の華僑に訴えて資金を調達する役割を任され、優れた弁舌と、無私無欲の篤実な人柄で、中国内で計画される蜂起を支援し続けた。本当は共に闘いたい、と願う孫文を外地に送り出し、代わりに国内での“革命”を指導するのが、黄興(ジャッキー・チェン)である。

 だが、国内での戦果は芳しくなかった。もともと乏しい物資と、古い武器しか用いることの出来なかった革命党は繰り返し敗北を喫し、そして1911年4月、黄花岡での大規模な蜂起は、強固な守りを敷いた朝廷軍に翻弄され、大勢の死者を出すこととなる。

 刑死した若者は72人、但し後年の調査ではもっと多くの若者が処罰されたとされるこの戦いは、だが1911年に中国で起きる激動の端緒でもあった。これを契機に、各地の革命党員が行動を活発化させ、そして10月10日、武昌での決起が成功を収めると、現地に指揮官として黄興が赴き、武昌を起点として中国は本格的な内戦状態に突入する。

 1911年10月10日、その日こそ、のちに“辛亥革命”のはじまりとされる日である――

[感想]

 ジャッキー・チェンという映画人は、己の立ち位置を客観的に眺め、時節に応じて変化させることを厭わないところがある。もともとブルース・リーの後釜としてロー・ウェイ監督に招かれながら、二番煎じでは通用しないことを痛感し、トラブルに巻き込まれながらも『ドランクモンキー/酔拳』を境にコメディ路線を確立、移籍後の成功を勝ち取った。自ら監督も担当してヒットシリーズに恵まれながら、やがて他の監督に自らのシリーズを明け渡して、新しい方向性を模索した。複数回に及ぶハリウッドへの挑戦においても、少しずつ軌道を修正し、けっきょくは自らが活きるスタイルを完成させて、成果を収めている。

 そんな彼も50代後半に至り、更なる変化を見せ始めた。日本でのロケも敢行した『新宿インシデント』で、華麗なアクションなどない、労働者たちの過酷な生き様を描き出した暗黒物語に挑んだかと思うと、往年の名作のリメイク『ベスト・キッド』ではかつて劇中の彼を成長させた師匠役に自らが臨み、貫禄を見せつけている。更に『ラスト・ソルジャー』では従来のコメディ・タッチの動きを歴史のドラマと組み合わせることに成功した。これらの作品で見せた変化の兆候が結びついた先に、本篇が位置している。

 往年のジャッキー映画のイメージだけで鑑賞すると、本篇は冒頭から意外性に満ちている。ジャッキーの出番は決して頻繁ではなく、数ヶ月前の孫文との交流、それに黄花岡での戦闘に身を投じる様子を交互に織り込み、盟友ひとりを戦地に送りこんでいることに煩悶する孫文の姿と、目の前で若い同胞を殺されながらも生き延びるしかない自分に悩む黄興の姿とを描く。語り口は洗練されながらも骨太で、かつてのアクションやユーモアで引っ張ってきたジャッキー映画の味わいとはまるで趣が異なる。

 いちおう歴史スペクタクル、という言い方が出来るだろうが、そう表現したときにイメージするような、持って回った語り口、やたらと感動をあおるような雰囲気はない。むしろ、ドキュメンタリーの再現映像に近い描き方をしている。決して過剰に感情移入しない、あからさまに潤色や捏造と解るような描写は控え、現実にこうであったのかも知れない、という描き方に留めている。たとえば、黄興は実際に、孫文を介して引き合わされた徐宗漢(リー・ビンビン)と愛し合うようになり、やがて所帯を持つのだが、普通ならひたすら情感を高めドラマティックに描きそうなこの要素を、無視はしていないがさらっと盛り込むだけに留めている。中国では教科書に載るほどに有名であるという林覚民(フー・ゴー)が身重の妻・陳意映(メイ・ティン)に遺した書と対比する形で印象づける工夫は施しているが、歴史的大事変を、特定の人物の感情が揺れ動く様と重ねて描くような、定番の手法を避けている。

 孫文や革命党の行動がどう朝廷を揺さぶったのか、結果として動員された北洋軍の袁世凱が何を考えて振る舞ったのか、という要所要所を的確に押さえ、“辛亥革命”という大きなうねりがどのように中国を変えていったのか――この作品は題名通り、1911年の流れを追うことを軸にしており、特定の人物に過剰に尺を割くことをしていない。あくまでも時代を主人公とするような描き方だが、しかしそれ故に、主要人物である孫文、黄興、袁世凱(スン・チュン)、隆裕皇太后(ジョアン・チェン)以外の人物の存在が埋もれることもない。序盤、テロップつきで綴られ、物語上はすぐに消えていく黄花岡の犠牲者たちの存在が記憶に残るのは、折に触れ黄興の回想という形で蘇り、更に覚民の遺書が引用されることと共鳴していることに因るが、他の無名の人物でさえどこか胸に残るように感じられるのは、本篇が特定の人物に注視せず、敢えて戦場や革命のための布石を断片的に抽出しているからだろう。それでいて、決して歴史の教科書的に切り取るのではなく、戦場での兵士のごく自然な振る舞い、その場に立ち会う黄興や孫文の表情をきちんと捉えているから、映画として、ドラマとしての深みも損なっていない。

 本篇の、作品世界に対する作り手の眼差しは、どこかジャッキー・チェンの、自分自身及び映画界全体に対する視線に近しいように感じられる。映画の世界でどのように己の世界を確立し、そして作り続けていくうえでどのような変化が必要とされるのか、自覚的であったジャッキー・チェンが老境に至って、周りに目を配り、その力を有名無名に拘わらず、どのように活かしていくのか、それが後世の映画界にどのように貢献するのか、を考慮して映画製作に携わるようになった。『ダブル・ミッション』でハリウッド流のスタイルと自身のスタイルの融合にひとつの決着をつけたことや、『ベスト・キッド』で師匠役に転じたこと、そして『ラスト・ソルジャー』でかつてのカンフー映画とは異なる形で歴史ドラマと自らのアクションを調和させたこと。作中ではジェイデン・スミス演じる少年を育て、『ラスト・ソルジャー』でディン・シェンという新進監督に作品を委ねたことも、こうして考えると繋がっていく。作品の中でも外でもジャッキーが示してきた想いが、本篇には凝縮されているのだ。

 往年のジャッキー作品のイメージで鑑賞すると、最初から最後まで意外に思えるかも知れないが、しかし前述したような近年の変化を踏まえれば、本篇の登場はほとんど必然だった。哀しいかな、我等がジャッキーと言えども、年齢ゆえの衰えからは逃れられない。激しいアクションで魅せることが困難になる一方で、これからの映画界を考えれば、後継者を育て、輩出していく必要がある。近年発表する作品からも窺えるそうした危機感、そして新しい段階へ臨まんとする意志を、より高い形で結実させたのが本篇なのである。

 アクション映画ではない。面白可笑しい作品でもない。それでも私は、これがジャッキー・チェンだからこそ成し得た、現時点での最高傑作と断じる。きっと、命ある限り立ち止まることはないであろう彼の辿り着いた、最高峰のひとつなのだ。

 ――とは言うものの、それでもジャッキーが出演するなら少しはアクションを愉しみたい、という人も多いだろう。そういうファンも疎かにしないのはさすが、というべきか、ほんのサービス程度ではあるが、ちゃんと身体ひとつで魅せる立ち回りの場面が、不自然でない形で挿入されているのも本篇の美点である。この作品についてはアクションなしでもまったく問題ないだろう、という想いを抱いていたところへ、いきなり繰り出されたひと幕に、私自身ニヤリとさせられた。

 しかし、これだけ言ってもなおジャッキー=アクションだろ、という方は、来年か、或いは再来年までお待ちいただきたい。ジャッキー版インディ・ジョーンズとも言うべき『サンダーアーム/龍兄虎弟』そして『プロジェクト・イーグル』に続く“アジアの鷹”シリーズの第3作『十二生肖』が次に控えている。記念碑的な位置づけとなる本篇を製作するためにいちど中断したというこの作品、“最後のアクション大作”と考えて臨んでいるそうで、準備に長い時間を費やし、久々に周囲が引くぐらい激しいスタントを採り入れているという。

 恐らくジャッキーは今後、もっと幅広い、アクションに囚われることのない映画作りにシフトしていくと思われる。そのことはいささか寂しく思えるが、これほど自らの立ち位置を理解したジャッキーが、“最後”という認識で作るアクション映画が生半可の出来で終わるとはとうてい思えない――なんか我ながら残酷なくらいハードルを上げすぎている気はするが、きっとジャッキーなら存分に期待に応えてくれる、と信じて、その時を待とうではありませんか。

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