メイドカフェ再襲撃

「ステージの隅っこのほうから、焦げ臭い匂いがしてくるんです」

 舞美さんがそう話すと、千波さんは眉をひそめた。やっぱり黙っていたほうが良かったかな、と舞美さんは一瞬後悔した。

 彼女たちが勤めるメイドカフェでは連日イベントが開催されており、そのためのステージが用意されている。

 歌や踊り、ちょっとした芝居などを披露しているとき、ご主人様たちとゲームに興じているとき、ふとした拍子に異臭に気づくことがあった。

 舞美さんが驚き視線を厨房のほうに送っても、そちらの人々は気に留める様子もない。鼻の粘膜を刺激するような異臭も、そちらからは漂ってこなかった。

 訝って、もういちど先刻の方角に顔を向けると、思わず鼻をつまみたくなるほどの炭素臭に襲われた。

「あんまりみっともない顔したから、ちょうど一緒にゲームをしていたご主人様に心配されちゃいました」

 ぺろ、と舌を出す舞美さんに、千波さんは眉をひそめる。

「でも、それだけじゃないんです。他にも、ロッカールームのほうから物音が聞こえることもあって」

「……それって、中から何かが飛び出してくるような音?」

「はい。え? 千波さんも聞いたことがあるんですか?」

 舞美さんの問いかけに、千波さんは返事をしなかった。心なしか、顔が青ざめている。

「他の娘も何人か、そんなのを聞いてて、怯えてるんですけど……どうしましょう? お祓いとかしてもらったほうが」

「……こんど気が付いたとき、知らせてくれませんか? 舞美さん」

「え? あ、はい。いいですけど……」

 重く真剣な口振りに気圧されて、舞美さんはたじろぎながら頷いた。

 舞美さんはあとで知ったのだが、彼女が働く前にこの店はいちど、ひとりの熱狂的な“ご主人様”の襲撃を受けていた。

 その“ご主人様”はひとりのメイドに執心したが、メイドには分を超えた関係を結んではいけない、という不文律がある。かの“ご主人様”もそれを承知していたから、思いつめるあまり、閉店後の店内に侵入して待ち伏せ、無理心中を図ったのだという。

 しかし、“ご主人様”が懸想していたメイドは、偶然にもその日、臨時の休みを取っていた。幾ら待てどもご寵愛のメイドが現れない苛立ちに、“ご主人様”は潜伏していた物置から店内に飛び出し、用意していた灯油を被って、自分の身体に火を放った。

 幸いに怪我人は出なかったが、店の内装はほとんど焼け落ち、営業を続けられなくなった。問題の“ご主人様”に目をかけられたメイドだけでなく、他の娘たちも他所の店に移るか、職を改めることになった。

 紆余曲折あったが、焼失した店は内装も店名も変えて、ふたたびメイドカフェとして営業を始めることになった。従業員もほとんど新顔に入れ替わったが、ただひとり、千波さんだけはオーナーたっての頼みで呼び戻された。新人たちの教育係に見込まれた、というのもあるが、それ以上に千波さんの折り目正しい“ご奉仕”ぶりに、オーナーはじめ多くのご主人様が魅せられており、復帰を望まれていた。別の場所でメイドを務めることに抵抗があった千波さんも、そういう話なら、とふたたびエプロンに袖を通したという。

 もっと怖いことが起きるのでは、という不安を抱えて、舞美さんはその日も“ご奉仕”に励んだ。

 他のメイドたちとステージに立って、ちょっとした芝居をかけているうちに、次第に集中が高まってくる。いつしか周りが見えなくなっていた、その油断を衝くように、気配は突然訪れた。

 同時に、同僚たちも微かに息を呑み、互いに顔を見合わせる。既にメイド仲間たちのあいだでは噂になっていたから、体験していた者もしていなかった者も、多かれ少なかれ意識していたのだろう。

 事情を知らないはずのご主人様がたも、にわかに浮き足立ったメイドたちの様子に戸惑いの表情を覗かせていた。何人かは目には見えない異変も感じているようで、眉をひそめる顔もちらほらと窺える。

 低く怯えたどよめきが店内を満たす。舞美さんは焦りを覚えた。これは、よくない。ここはご主人様にくつろいでいただく場所なのに、ご主人様を脅かし、不安を与えてしまっている。

 どうしよう、でもどうしたらいいんだろう。

 こんな事態に対応するマニュアルなんて知らない。そもそも、誰か正しい対処の仕方が解るんだろうか? たとえ千波さんでも、きっとこんな経験は……

 そこで舞美さんは初めて、千波さんが動いていたのに気づいた。いつになくぎこちなく、慎重な足取りでステージを降りる。ご主人様たちとメイドたちの視線を浴びながら、千波さんは焦げた匂いが溢れだす空間の手前で足を止めると、うやうやしく頭を垂れた。

「お帰りなさいませ、ご主人様。長らくお見限りでしたが、いかがお過ごしでしたでしょうか? 先だってお帰りのご様子でしたが、気づかずお迎えが遅くなりましたこと、お詫び申し上げます」

 どよめきが静まり、店内の誰もが固唾を飲んで、千波さんを見つめている。いつもと変わらず端然と佇んだ千波さんは、軽く首を傾げ、いたわるような微笑みを浮かべて言葉を継いだ。

「恐れながら、お装いが乱れていらっしゃるようでございます。どのようなお姿でも、わたくしどものご主人様には違いありませんが……以前は身づくろいを気遣われていたことをご存知ない皆様に、誤った印象をお与えになるのは、メイドとして大変心苦しく思います。

 あいにく、こちらにはお召し替えいただくものの用意がございませんが、せめてお身体だけでも清めていただければ、わたくしどもも安心です。どうぞ、あちらでお身体を流していただ」

 千波さんが従業員通用口のほうを、手首を返し示した途端にフロアを、透明の靴底が叩く音が確実に、千波さんの示したドアへと猛スピードで駆け抜けた。文字通り見えない何かがドアをすり抜けたかのように、足音が向こうへ吸い込まれると、ロッカーの金属製の扉がけたたましく開かれ、叩きつけられるように閉じられる音が立て続けに響いた。

 しばらく、誰も口を利かなかった。気の抜けたような溜息が、低いうねりを奏でる。

「……帰った?」

「……帰った、ね」

 舞美さんが間近の同僚と囁きを交わすと、店内のあちこちから似たような言葉がいくつもこぼれた。緊張が解れる。頬が緩むのを感じながら、従業員通用口から千波さんのほうを振り向いて、舞美さんは呆気に取られた。

 千波さんが、床に座り込んでいる。

 絶句した舞美さんに一瞬惚けた顔を見せたが、すぐに、はっ、と息を呑むと、千波さんは腰を浮かせた。

「は、はうっ……?!」

 しかし、いつになく締まりのない声を漏らすと、へにゃり、と尻餅をついてしまう。そして、四つん這いになると、ばたばた手足を漕いで、さっきの“ご主人様”に続くように通用口に飛び込んでいった。

「……千波、さん……」

 結論から言えば、あれで怪異が収まったわけではなかった。そのあとも、ロッカーから何かが飛び出してくる音がしばしば聞こえてくるし、ステージの片隅からは焦げ臭い匂いがときおり漂ってくる。

 だが、以前と比べれば回数は減り、メイドたちが怯えることはなくなった。いまでも驚くのは、千波さんしかいない。

 いつしかこの店は、ときおり不可解な物音や異変が起きては、そのたびに腰を抜かす千波さんの姿が、名物のひとつになっていた。

 それでも普段は凛と振る舞い、腰を抜かしながらも懸命に虚勢を張る千波さんは、舞美さんからも他のメイドたちからも、無論たくさんの“ご主人様”たちからも愛されている。

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