『誰かが私にキスをした』

『誰かが私にキスをした』

原題:“Memoirs of a Teenage Amnesiac” / 原作・脚本:ガブリエル・ゼヴィン(集英社文庫・刊) / 監督・製作・編集:ハンス・カノーザ / 撮影監督:ジャロン・プリザント / プロダクション・デザイナー:金田克美 / 編集:フィリス・ハウゼン / 衣装:小川久美子 / 主題歌:Kylee『キミがいるから』(DefSTAR Records) / 出演:堀北真希松山ケンイチ手越祐也アントン・イェルチンエマ・ロバーツ、カイリー、桐谷美玲、清水美紗、桐島かれん渡部篤郎 / 配給:東映

2010年日本作品 / 上映時間:2時間4分

2010年3月27日日本公開

公式サイト : http://darekiss.com/

TOHOシネマズ西新井にて初見(2010/03/27)



[粗筋]

 きっかけが、コイントスだったことは朧気に覚えている。でも、何故そのせいで病院に担ぎ込まれたのか、スクセ・ナオミ(堀北真希)はまったく覚えていなかった。目醒めた病室で、彼女の傍らにいた青年が何者であるのかも。

 階段からの転落事故の結果、ナオミが失ったのは実に、5年分にも及ぶ生活の記憶だった。幼い頃に母を亡くし、父(渡部篤郎)とふたり暮らしであるのはちゃんと覚えているが、同級生のことは無論、彼氏のことも、自分がインターナショナル・スクールに通っていることも記憶から消えている。

 幸いに生活習慣や、英語の日常会話など学習したことは残っていたため、ナオミはすぐに授業に復帰したものの、学校生活は戸惑うことばかりだった。同じテニス部所属だったエース(アントン・イェルチン)に迫られても乗り気にならず、異性の親友だったというハセガワ・ミライ(手越祐也)とは現在イヤー・ブックの編集を一緒に指揮しているという話だったが、記憶にない“想い出”に、ナオミの戸惑いはいや増すばかりだった。

 ナオミが唯一心を許したのは、ミワ・ユウジ(松山ケンイチ)という同級生だけだった。ナオミにとって、事故の直後に付き添ってくれた恩人である彼は最近転校してきた生徒だが、どうやら前の学校では女の子につきまとい、振られた挙句に自殺未遂を起こしたことがあるのだという。その噂を否定せず、ひとりきりで振る舞う彼の姿に、記憶を失い何処か今の暮らしに違和感を抱く彼女の、心の拠り処となっていった……

[感想]

 海外の監督が日本を舞台に映画を撮る、ということにあまりいいイメージを抱かない人は少なくないと思われる。どうしてもそこに誤解や過剰な表現を見出し、自分自身の持つイメージと海外の人々が抱くイメージとのギャップに苛立つ場合が少なくないからだ。『ブラック・レイン』や『ロスト・イン・トランスレーション』のような、比較的評価の高い作品であってもこうした印象は拭えない。

 ただ、いま例に挙げた作品がそうだが、これはそもそも製作者の偏見というよりは、視点人物が日本人ではなく、長期滞在しているわけでもないことに起因している、と見るべきだろう。物語を表現する上で、観客と同じ視座に立つキャラクターの人物像に従い、見えるものの捉え方にバイアスがかかるのは当然だ。

 しかし本篇は、そういう意味では非常にいい仕上がりとなっている。

 その理由は恐らく、日本人のキャストを中心に据えながら、しかし舞台をインターナショナル・スクールに設定したことにある。人物の価値観が基本的に日本人らしさを感じさせながら、会話では英語が頻繁に用いられ、私服中心で9月を節目とした進級、そしてホームカミングという日本の常識とは異なる学生生活を基調とすることで、日本でありながら日本でない、独特の雰囲気を構築している。如何にもアメリカナイズされた風習や恋愛模様にも、強い違和感をもたらさないように仕組んでいる。むしろ、本篇の一風変わった華やかさは、海外中心のスタッフと日本中心のキャスト、という独特の構成だからこそ可能になっている、とさえ言えるだろう。

 かといって、決して単純にファッショナブルな内容になっているわけではない。記憶を失っても、生活習慣や学習したものごとは身体に刻まれているので、決して不自由は感じない。記憶にない交友関係、恋愛関係の中に突然放り出され戸惑う姿にこそ焦点を当てて記憶喪失を描いているのはなかなかにユニークな視点だ。そういう、ありがちなようでいて特異な境遇の中であってこそ繰り広げられる想いの交錯を、本篇は決して能弁になることなく、シンプルだが奥行きのある台詞とモノローグで表現している。洒落ているが軽くない、情緒的だがお涙頂戴にならない適度なドライさは、日本で好んで作られるような兼愛映画とは一線を画した味わいがあって、尚更に日本人キャストを配したことの面白さを感じさせる。

 そして、個人的に本篇で何よりも高く買っているのは、堀北真希という女優を非常に巧く活かしている点だ。日本では“清純派”という惹句が先に立ってしまっているせいでどうも役柄や内容が制限されてしまっているうえ、コミック原作の作品に起用されることが多く、そうした作品特有の“キャラ立て”によって人物像の変化、演技の幅が狭められている感が否めない。しかし本篇では、記憶喪失に起因する人物像のブレ、語られる期間の長さによる心境の変化を描いているために、表情の振り幅を大きくすることに成功している。

 それだけでなく、衣裳の変化も非常に多彩だ。普段着も様々なら、テニスウェアやパーティドレス、更にはお芝居の中で騎士の姿まで披露し、エンドロールのあとにはもうひとつオマケまで添えている。堀北真希にはショートカットのイメージが強いが、序盤では(恐らくウイッグを着用しているのだろうが)セミロングでまとめていることも新鮮だ。

 一方で、“清純派”のレッテルを貼られている日本ではあまりなかった演技を彼女にさせているのも出色である。とりわけ、失われた時間の中で恋人同士だったエースに迫られている場面で、コンドームを手に取る描写など、他では見た覚えがないだけに、ファンとしてはちょっとした衝撃を味わうはずだ。それでも決して清廉さを損なった印象を受けないのは、赤裸々でも抑制を利かせた表現を心懸けていることと、堀北真希という女優の備える魅力を存分に汲み取っている証と言えるだろう。

 ヒロインの魅力を可能な限り引き出し、軽快に華やかに描きながら、それでいて本篇の語り口には思春期の恋愛模様の苦みも甘さも充分に含まれている。終盤までその結末を読み解くことが難しい一方で、きちんと必要な表現を押さえる周到さも備わっている。リアリティと同時にフィクションならではの御都合主義も色濃く、そこに拒否反応を覚える人もいるだろうが、フィクションだからこその振り幅を存分に活かした、優秀な“恋愛映画”であることは間違いない。

 ……ただ、繰り返すようだが、堀北真希という女優がこれまで演じてきた役柄や、バラエティ番組などで見せる表情に惹かれてファンになったような人には幾分ショッキングな描写がいくつかあるので、そこは覚悟を決めて欲しい。しかし、一介の映画好きとして、彼女の出演した映画の中では最も内容に優れ、魅力を存分に引き出した逸品であることは保証しておく。

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