『30デイズ・ナイト』

『30デイズ・ナイト』

原題:“30 Days of Night” / 原作:スティーヴ・ナイルズ(マイクロマガジン社・刊) / 監督:デヴィッド・スレイド / 脚本:スティーヴ・ナイルズ、スチュアート・ビーティ、ブライアン・ネルソン / 製作:サム・ライミ、ロブ・タパート / 製作総指揮:ジョー・ドレイク、オーブリー・ヘンダーソン、ネイサン・カヘイン、マイク・リチャードソン / 共同製作:テッド・アダムス、クロエ・スミス / 撮影監督:ジョー・ウィレムズ / プロダクション・デザイナー:ポール・デナム・オースタベリー / 舞台装置:ジャロ・ディック / 編集:アート・ジョーンズ / 衣装:ジェーン・ホランド / 音楽:ブライアン・レイツェル / 出演:ジョシュ・ハートネット、メリッサ・ジョージ、ダニー・ヒューストンベン・フォスター、マーク・ブーンJr.、マーク・レンドール、アンバー・セインズベリー、マニュ・ベネット、ミーガン・フラニッチ、ジョエル・トベック、エリザベス・ホーソーンナサニエル・リーズ / ゴースト・ハウス・ピクチャーズ製作 / 配給:Broadmedia Studios Corporation

2007年アメリカ作品 / 上映時間:1時間53分 / 日本語字幕:桑原あつし / R-15+

2009年8月22日日本公開

公式サイト : http://www.30days-night.jp/

有楽町スバル座にて初見(2009/08/22)



[粗筋]

 アメリカ、アラスカ州、バロウの街に、極夜が訪れようとしていた。太陽が地平線を越えることなく、30日に亘って続く夜。保安官のエヴァン(ジョシュ・ハートネット)は同僚のビリー(マニュ・ベネット)が街の入口にある看板の人口表記をひとつ減らすのを、苦々しい想いで見守った。削られた一名は、エヴァンの妻ステラ(メリッサ・ジョージ)を意味していた。エヴァンと離婚協議中の彼女は、飛行機の発着陸が困難になる極夜を前に、いったんこの地を離れることにしたのだ。

 しかしこの、太陽としばしの別れを告げる日に、バロウの街は心なしか騒然としていた。ジョン夫妻の飼う犬ぞりの犬たちが惨殺され、街を出るはずだったステラは溝掘車と事故を起こして足止めを食い、最終便に間に合わなかった。とどめはバーに現れた謎の男(ベン・フォスター)である。店に無理難題を突きつけ不穏な空気を撒き散らす男を、エヴァンはステラと協力して取り押さえ、保安官事務所に拘置する。

 拘留されたあとも男は、街に何者かと共に終わりが訪れる、と謎の言葉を吐き続けた。そんな中、突如停電が発生する。動揺する母や弟・ジェイク(マーク・レンドール)を宥めて、エヴァンは発電所に赴いた。そこで発見したのは、顔馴染みの管理人・ガスの生首。そして無線から響き渡る、ジェイクの悲痛な叫び――

 ……そして、バロウの街に、長い長い悪夢の夜が訪れた。

[感想]

 ヴァンパイアは映画に限らず、フィクションではもはや定番のモンスターであり、モチーフとなっている。最近だけでも、伝奇アクションという切り口から描いた『アンダーワールド:ビギンズ』があり、青春物語に絡めた『トワイライト〜初恋〜』があり、その気になれば幾らでも作例を挙げることが出来る。

 本篇が他の作品と一線を画しているのは、ヴァンパイアを“人間社会に潜んで生き延びる、迫害された存在”として描くのではなく、“人間を狩る獣の集団”として描いていることだ。一対一で人間と向かい合い、喉元に牙を立てる、一種官能的な存在としてではなく、徒党を組んで野蛮に人間に襲いかかり、肉を食いちぎる。しかも、明確には描いていないが、一定のルールを設定してきちんと統率を取っている節がある。血を吸われた人間はやはり彼らの同族となるのは通例通りのようだが、闇雲に増やさぬよう、噛んだ人間の首を切り落とすように明言しているシーンがあるし、痛手を負った者は仲間たちの血肉にする、という趣旨のくだりもある。

 そして、そんな彼らの狩り場として、題名通り30日間太陽の昇らない街を設定したのが、本篇の最大の勘所だ。普通の吸血鬼映画では、彼らにとって致命的な朝日の訪れる瞬間にひとつの区切りが設けられるのだが、本篇はその時が遙かに遠い。雪に覆われ凍りついた世界で、いつまで待っても救い――陽射しの訪れることがない逃走劇は、従来の吸血鬼映画にはないジリジリとした焦躁と、圧倒的な絶望感に彩られている。吸血鬼の特徴が世界的に認知されているからこそ通用するアイディアだが、有効活用したいい例である。

 狩られる側の思考が幾分現実的になっているのも、本篇の特徴的な一面だ。たいていの映画では、追われる側は相手の弱点を見出して、最終的に反撃に転じるものだが、本篇は序盤から「戦っても勝ち目はない」という姿勢に徹しており、如何にして相手の監視を逃れるか、あからさまな罠を回避するか、というところで物語に緊迫感を形作っている。ホラー映画ではよく、わざわざ危険に赴く人間がいることが笑いの対象になってしまうもので、狙ってやっている場合も無意識にそうなってしまう場合も等しく存在するが、本篇は相手を本気で忌避し、それでも逃れられないところに恐怖を形成する。夜明けが訪れないこともそうだが、人物造型が現実に近いからこそ、本篇は余計に逃げ場がないことを実感させる。この緊迫感は、なかなか類を見ない代物である。

 引っ掛かるところもある。最たるものは、長期的に同じところに留まっている場合、通常浮上するはずの排泄の問題や、身体の清潔さに関係する描写があまり見られない点だ。なまじ途中に、こっそりとトイレに向かった者に「水は流さないように」と注意している箇所があるだけに、他に言及がないことが余計不自然さを齎してしまっているし、清潔の問題については特に触れていないが、主人公であるエヴァンを演じるジョシュ・ハートネットが、他の男性達と較べてヒゲがあまり伸びていないことにどうも居心地の悪さを覚える。成人男性であってもヒゲの伸び具合には個人差があり、エヴァンは薄い体質だった、という設定があったのかも知れないが、こちらは逆に触れておいて欲しかったところだ。

 だが、このあたりは或いは、過剰に生々しくなってしまうことを怖れて、意識的に避けたとも捉えられる。事実、こうした部分に触れていないからこそ、焦点は盛んに人間たちを誘き出そうとするヴァンパイアと、懸命に隙を窺って安全圏へと逃れようとする人間たち、という緊迫したやり取りに集中出来ている。

 ヴァンパイアを30日間陽の昇らない街に送りこんだ、その着想をストーリーの上で存分に役立てた本篇だが、それ故の舞台設定を、本篇は演出面でも限界まで活かしている。戦いが繰り広げられるバロウは雪原に孤立した人口150人程度の小さな集落。襲撃される人々の悲鳴と吹雪の他に聴こえてくる音はなく、その静寂と喧騒のメリハリを活用するべく、本篇は音楽も一般のホラーのようにやたら恐怖や衝撃を煽らず、静寂をより強めるような使い方をしている。そして、一面の銀世界で殺戮が繰り広げられたあと、僅かひと筋の街道にはあちこちに血の海が転々と残り、のちの場面にも凄惨な彩りを添える。多くのホラー映画ではいちど惨劇が発生した場所に戻ることはないだけに、こうした描写で作品の迫真性を補強していることも特筆すべき点だろう。

 襲撃者と獲物との駆け引きをリアルに描くことに腐心した本篇では、ヴァンパイアたちのみならず、追われる者達の背景についてもあまり詳述はしない。たとえば主人公エヴァンと妻ステラは離婚協議中であるが、何故そんな事態に発展したのかには一切触れていないし、他の住人たちの過去や軋轢についても仄めかすのみだ。そうした部分はあくまで作品世界に奥行きを齎すものと割り切っているのだろう。それを象徴するように、本篇は締め括りもいささか素っ気ない。だが、そこにはやりきれない、しかし嫋々たる余韻が備わっている。

 どこかしら地味な印象は免れないが、ヴァンパイアを象徴的なものとしてではなく正しく“モンスター”として描き、ホラーの味わいを添えつつ、ヴィジュアル・演出面で透徹した美しさを留めた、渋みのある佳作である。

 本篇の監督デヴィッド・スレイドは、のちに『JUNO/ジュノ』で若くしてアカデミー賞主演女優賞候補に挙げられたエレン・ペイジを起用した前作『ハードキャンディ』で注目された新鋭である。前作といい本篇といい、監督の技倆はサスペンスでこそ発揮されるように感じられるのだが、本篇が本国で好評を博したことを受けてなのか、第1作の大ヒットを受けて原作シリーズの連続した映画化の決定した『トワイライト〜初恋〜』の第3作に起用される運びとなったらしい。

 才能が認められて抜擢されるのは喜ばしいことだが、しかし同じヴァンパイアものと言い条、本篇は上に記したように吸血鬼を“モンスター”として捉えなおし、その脅威と緊迫した駆け引きとを描いたものであるのに対し、『トワイライト』シリーズはヴァンパイアの特徴を恋愛と絡め、青春物語の材料として活かしている、いわばまるで解釈の異なる代物である。

 果たしてデヴィッド・スレイド監督は次回作で新たな才覚を示すのか、或いは本作までに披露した自らのフィールドに作品世界を引き込んでしまうのか。いずれにせよ、新作の発表を今から首を長くして待ちたい。

関連作品:

ハードキャンディ

インソムニア

アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン

コメント

タイトルとURLをコピーしました