『ディア・ドクター』

『ディア・ドクター』

監督・原作・脚本:西川美和 / プロデューサー:加藤悦弘 / 企画:安田匡裕 / 撮影:柳島克己 / 照明:尾下栄治 / 美術:三ツ松けいこ / 編集:宮島竜治 / 衣装:黒澤和子 / 録音:白取貢、加藤大和 / 音楽プロデューサー:佐々木次彦 / 音楽:モアリズム / 出演:笑福亭鶴瓶瑛太余貴美子井川遥松重豊岩松了笹野高史中村勘三郎香川照之八千草薫 / 制作プロダクション:エンジンネットワーク / 配給:ENGINE FILM×Asmik Ace

2009年日本作品 / 上映時間:2時間7分

2009年6月27日日本公開

公式サイト : http://www.deardoctor.jp/

池袋HUMAXシネマズ4にて初見(2009/07/15)



[粗筋]

 8月の終わり、ひとりの医師が失踪した。

 神和田村は、その医師――伊野治(笑福亭鶴瓶)が3年前に赴任してきたことで、前任者が亡くなって以来の無医村状態をようやく脱していた。伊野は診療所に通うことの出来ない住人のところにも積極的に健康診断に赴き、既に住民からは絶大な信頼を集めていた。

 失踪の2ヶ月前、伊野の勤める神和田村診療所に、相馬啓介(瑛太)という研修医が派遣されてくる。都会で医療を学び、片時も携帯電話を離さない現代っ子の相馬には、型破りな伊野の診察の仕方は最初奇妙なものに映った。だが、村人の意思を尊重し、時として奇跡的な治療を施して信頼を集め、確実に村に明るさを齎している伊野を、相馬は次第に尊敬し、そのやり方を踏襲するようになっていく。

 伊野はだいぶ前から、鳥飼かづ子(八千草薫)という住民のことを気に懸けていた。末娘のりつ子(井川遥)を医師に育て上げながら、何故か医者にかかっていない彼女だが、近ごろ調子が思わしくない、という話が伊野の耳に届いていた。周囲の説得もあってようやく診察を受けたかづ子だったが、やたらと人目を気にしている素振りを察知した伊野は策を巡らせ、その夜、どうにか彼女により詳しい診察を受けることを了解させた。

 やがて診療所を訪れたかづ子を診察した伊野であったが、その結果が、順調に思えていた伊野たちの生活を狂わせていく……

[感想]

 本篇のトーンは、昔ながらの日本映画の香気を感じさせる。日本ならではの田園風景が物語の中心になっていることもさりながら、冒頭、森閑とした農村の一本道を走るバイクをロングショットで追いかけたり、玄関先に佇み人を見送る老婦人をじっと捉え続けたりする、静的なカメラワークがそういう印象を決定づけているようだ。

 だが物語自体は非常に現代的だ。近年フィクションの世界で意識的に題材にされるようになった僻地医療もそうだが、主人公である伊野がついていた“嘘”も、最近になって幾度か似たような出来事が報道を賑わせている。この両者を組み合わせ、奥行きのあるドラマに仕立て上げる着眼の巧さと手腕の確かさが出色だ。

 この作品において最も絶妙であるのは、主人公、というより狂言回し的な位置づけにある伊野治という人物に、笑福亭鶴瓶をあてがったことだろう。人懐っこく、誰の心にもあっさりと侵入してしまう笑顔を備える一方で、何処か底意を窺わせない印象があり、頼りがいも情けなさも同時に漂わせることが出来る。たとえばこの映画に出演している香川照之あたりなら、こういう役柄も完璧にこなしてみせるだろうが、世間的に浸透しているキャラクターからもはみ出すことなく馴染むことの出来る、ムードから嵌ることの出来る役者は恐らく彼を措いていなかった。

 鶴瓶が演じる主人公・伊野の抱える秘密について、上の粗筋においては伏せて記したが、実際のところかり早い段階から察することが出来る。そのため、最初のうちはもう少し伏線の張り方を変えた方が良かったのでは、という印象も受けたのだが、終盤に近づくにつれて、秘密の存在とその仄めかし方、扱い方が絶妙の匙加減を保っていることに気づいた。医師の焦点を暈かした言動のために最後まで彼の真意が判然とせず、あからさまなのに謎解きのような緊張感を終盤まで持続している。そして片づいたあとで振り返ってみると、あからさまな仄めかしや、あとの展開を意識した心理的な伏線も緻密に用意してあって、お涙頂戴の筋書きとは異なる種類の感動さえ味わえる。

 伊野以外の登場人物の造形、配置も見事だ。伊野の秘密を知っている一部の人物の、繊細な心理描写も巧みだが、こと研修医として事態に関与することとなる相馬という青年の使い方が素晴らしい。冷静に考えると、こういう設定で彼のようなキャラクターが絡んでくることが現実にあり得るのかいささか疑問に思えるのだが、伊野と周囲の人間との関わり合いを象徴するかのような言動のお陰で不自然さをほとんど感じない。伊野を演じた鶴瓶がお気に入りだと語る、失踪直前の伊野と相馬とのやり取りは、まさしく本篇最大の見せ場だろう。

 この作品は、いわば膨張する“嘘”に、自覚的に、或いは無自覚に振り回される人々の群像だ。そもそも善意から出たのか悪意であったのかも定かでない嘘が、結果的に多くの人々の心に安寧を齎していた、という不思議さ。終盤で描かれる、あまりに空虚な映像の数々は、いったい何が正しいことなのか、という不安を観るものの胸のうちに植え付ける。

 だが、そうした主題と描き方に反して、決して観終わったあとの印象が沈鬱でないのは、シリアスなストーリー展開ながらも随所にユーモアを含んでいることと、ラストシーンにある。この作品において最後まで語られない伊野の真意についても仄めかすこのささやかな結末が、本篇に確かな救いを残しているのだ。物語のうえで、ムード作り以上の役を果たしていないように感じられるユーモアが、このいささか唐突な展開も正当化しているのだから、まったく恐れ入る。

 明快なカタルシスはなく、美しい情景や噛み応えのある描写はふんだんにあっても、派手さとは程遠いために、華やかさを求める向きはまず満足感は得られないだろう。だが、細かいところまで吟味しがいのある本篇は、間違いなく“本物”の質を備えた映画である。観てもあまりピンと来ない人もいるかも知れないが、それでも恐らく胸のなかに何かを残してくれるはずだ。

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