『4ヶ月、3週と2日』

原題:“4 luni, 3 saptamini si 2 zile” / 監督・脚本・製作:クリスティアン・ムンジウ / 製作・撮影:オレグ・ムトゥ / 製作総指揮:フロレンティナ・オネア / 共同製作:サガ・フィルム、アレックス・テオドレスク / 美術:ミハエラ・ポエナル / 編集・音響:ダナ・ブネスク / 音響:ティティ・フレアヌク、クリスティアン・トゥルノヴェツキ / 衣装:ダナ・イストラーデ / 出演:アナマリア・マリンカ、ローラ・ヴァシリウ、ヴラド・イヴァノフ、アレクサンドル・ポトチュアン、ルミニツァ・ゲオルジウ、アディ・カラウレアヌ / 配給:コムストック・グループ

2007年ルーマニア作品 / 上映時間:1時間53分 / 日本語字幕:地田牧子

2008年03月01日日本公開

公式サイト : http://www.432film.jp/

銀座テアトルシネマにて初見(2008/03/01)



[粗筋]

 1987年、ルーマニア、とある大学の女子寮。

 その朝、オティリア(アナマリア・マリンカ)はある準備に追われていた。当事者はルームメイトのガビツァ(ローラ・ヴァシリウ)なのだが、いちいち頼りない彼女のために、オティリアは奔走する。数日間籠もる可能性を考えて、石鹸や煙草を用意し、足りない資金を自分の恋人アディ(アレクサンドル・ポトチュアン)からも無心してどうにか揃え。

 ようやく、しばらく滞在する予定だったホテルに赴いたオティリアだったが、そこの受付で、思わぬトラブルに見舞われる。「予約が確認できない」と宿泊を断られてしまったのだ。仕方なく別のホテルで無理を言い、ダブルの部屋を確保してもらったが、思いがけず出費が嵩んでしまう。ガビツァに連絡を取ると、体調が悪いから、このあと逢う予定になっていた人物を、代わりに迎えに行って欲しい、と言い出した。

 渋々約束の場所に赴くと、その人物は乗用車で現れた。べべ(ヴラド・イヴァノフ)という名のその人物は、だがオティリアと会話を交わしているうちに不機嫌を顕わにした。必ず当事者が迎えに来ること、その上で相談する、という約束で、しかもホテルが指示した場所でなかったことに腹を立てているらしい。しかし、彼に来てもらわなければ目的を果たすどころではない。どうにか説得して、ホテルまで同行してもらった。

 ガビツァは既に来ていたが、三人での話し合いは次第に険悪な空気となっていく。ガビツァの不手際はホテルの手配、待ち合わせの約束を反故にしたことに留まらなかった。彼女の妊娠は2ヶ月という話だったが、生理が遅れてから3ヶ月――正しい計算では、最後の生理から数えるため、既に4ヶ月を超えている。ルーマニアの法で、この状況での堕胎は殺人罪が適用されるのだ。しかも、ガビツァに言われてオティリアが準備していた資金では“はした金”に過ぎない、と言われてしまう。

 どのみち、降ろさない訳にはいかない。だが今のままでは、べべは施術に頷いてくれないだろう。窮した挙句、オティリアは悲壮な提案をする……

[感想]

 先頃発表された第80回アカデミー賞は、主要部門をコーエン兄弟の最新作『ノーカントリー』が制した。他にも多くの映画賞で栄誉に輝いた作品だったが、しかし本編はカンヌ映画祭において、それを斥けてパルム・ドールを獲得している。否応なく興味の湧くところであったが――なるほど、絶賛も頷ける、強烈な作品である。

 冒頭から、説明らしい説明が一切ない。最初にテロップで“1987年、ルーマニア”と表示しただけで、あとはただ淡々と、非合法な行いの準備をするふたりの女性を追っている。BGMなど用いず、台詞でさえしばしば小さすぎて、恐らく音響で加工したのだろう、時折過剰なほど低音が響く。ホームビデオのようだ、という指摘もあったそうだが、まさにそんな身近なリアリティが息づく映像が果てしなく続く。

 しかしこのストイックな構成と突き放したような表現の中に、必要な事実はきちんと織りこまれ、たとえルーマニアについてさして知識が無くとも、主人公達を取り巻く社会情勢が理解でき、その閉塞感がひしひしと伝わってくる。私が予め認識していたのは、この頃まだルーマニア社会主義であり、こののち崩壊していく、というぐらいだったが、観ているだけでも例えば堕胎が違法であったこと、他の国から流入する煙草などが頻繁に闇でやり取りされ、場所によっては現金よりも価値があるように認められていることなどが解る。

 特に顕著なのは、中心となる女性達の堕胎に対する認識だ。かなり性的には自由があるようだが、ろくに避妊は行われていない形跡がある。堕胎医を探すときに友人に相談すると具体的な名前が挙がり、知人に実際に施術された者がいる、というほどその行為が身近なのに、他方で当事者のガビツァは正しい妊娠期間の計算方法さえ認識していない。どうやら社会的な背景によって、性的な知識についての歪みが生じていることが窺われる。

 こうしたことが、明白な説明台詞など一切ないのに、断片的な会話からきちんと伝わってくる。驚異的な配慮の行き届いた会話に、次第に圧倒されるような心地さえ覚えた。

 だが更に凄まじいのはカメラワークである。冒頭におけるルームメイトとの会話、それから寮の廊下をシャワー室、友人の部屋と渡り歩いていく姿、ホテルでの宿泊を交渉する模様から後ろにいた密売人から煙草を買うまでの様子、などなど、ひと繋がりの場面は基本的にすべて1ショットで撮影されている。一見無駄が多いように見えて、この手法のお陰で主人公が感じている緊張が恐ろしいほど直接的に観る側に伝播してくる。一切BGMを用いていないことも、この緊迫感を更に助長する。拳銃を向けられるとか現実に死の恐怖と直面している訳でもないのに、全篇に漲るこの緊張感が、さながらサスペンス映画のような迫力を伴っている。本篇の監督は他国でホラーやスリラー映画に誘われた、という話だが、それも頷ける。

 ただ私はそうした緊迫感の演出の巧さもさることながら、主人公となるオティリアを翻弄する周囲の人々の個性こそ際立った点だと感じた。そもそも本来当事者であるべき友人ガビツァ自身が、この期に及んで嘘に嘘を重ねて状況を悪化させる一方で、オティリアの誠意を何処かで疑いつつ快く力になってくれることを強要し、一切任せきっている様子が窺える。オティリアの様子がおかしいことを察しながらも自分と彼女の関係に対する影響しか見えていない彼氏、そんな彼氏が連れてきたオティリアに対して旧態然とした説教をする彼氏の親戚たちなど、やたらと視野が狭く、それ故に生々しい登場人物の描写が実に出色だ。とりわけ違法を承知で堕胎を行っているとは言えあまりに冷淡で酷薄な態度を取る堕胎医など、悪人ではないが決して善人でもない、しかし途中でちらりと母親との会話を描いて人間らしさを窺わせる過程など、憎らしいほど念が入っている。念が入っているだけに、中盤でのあの描写の衝撃が凄まじい。

 そうした人物描写の端々に、当時の社会が抱えていた閉塞状況が濃密に感じられるのも見事である。特に終盤、気もそぞろに彼氏の母親の誕生パーティに加わった主人公オティリアに対して彼氏の親類達が口にする事情は、極めて旧態然としていて、しかしそれに反論できない(しても意味がない)が故のオティリアのもどかしい心境こそ、象徴的なものだろう。恐らく若い世代はいまの政情が長続きしないことを察知しながら、当面は現状にその都度対処するしか術がない。この息苦しさが、まるで画面から滲むようだ。

 予想外のトラブルに翻弄されつつ、何とか目的は果たす主人公達だが、ラストシーン、疲れ果てた二人の表情に達成感は認められない。だがその一方で、似たようなアングルで描かれる冒頭とは明らかに何かが変わっていることを感じさせる。彼らがその後果たして幸せになれるのか、あの表情からは疑わしいものの、しかし確実に彼らの中に何かが刻まれたことは解る。そして観ている私たちも、ほぼ同じ感覚を共有させられてしまったと言っていい。

 娯楽映画と呼ぶにはあまりに素っ気ない、だが僅か2時間に凝縮された描写が、観る側に何らかの衝撃を齎さずにおかない、恐るべき映画である。面白いとか面白くないとかいう以前に、釘付けにされるのは請け合いだろう。

 ――しかし、無音のクレジットのあと、通常のエンドロールと共に流れる脳天気な歌謡曲はさすがに人を食い過ぎという気はした。恐らくそれでさえ狙いなのだろうけれど。

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