『さらば、ベルリン』

原題:“The Good German”/ 原作:ジョゼフ・キャノン(早川書房・刊) / 監督:スティーヴン・ソダーバーグ / 脚本:ポール・アタナジオ / 製作:ベン・コスグローヴ、グレゴリー・ジェイコブズ / 製作総指揮:ベンジャミン・ワイスブレン、フレデリック・W・ブロスト / 撮影監督:ピーター・アンドリュース / 美術:フィリップ・メシーナ / 編集:メアリー・アン・バーナード / 衣裳:ルイーズ・フログリー / 音楽:トーマス・ニューマン / 出演:ジョージ・クルーニーケイト・ブランシェットトビー・マグワイアボー・ブリッジス、トニー・カラン、リーランド・オーサー、ジャック・トンプソン、ロビン・ワイガート、ラビル・イシアノフ、クリスチャン・オリヴァー / セクション・エイト製作 / 配給:Warner Bros.

2006年アメリカ作品 / 上映時間:1時間48分 / 日本語字幕:石田泰子 / 字幕監修:アズビー・ブラウン

2007年09月22日日本公開

公式サイト : http://www.saraba-berlin.jp

TOHOシネマズ六本木ヒルズにて初見(2007/09/27)



[粗筋]

 時は1945年、折しもポツダム会談が開催される間際のベルリン。

 現地に駐留するタリー伍長(トビー・マグワイア)は外面こそいいが、その実戦争の混乱に乗じて小さな盗みや物資の横流しを繰り返して金を稼ぐ小悪党である。ポツダム会談取材のためにベルリン入りした新聞記者ジェイク・ガイズマー(ジョージ・クルーニー)に運転手としてつけられたタリーは、いつものように親切めかして近づきながら巧みに財布を掠め取り、軍用貨幣と共に身分証明書を拝借した。現地で作った恋人、娼婦のレーナ(ケイト・ブランシェット)が出国するために必要な書類を揃える役に立てようとしたのである。

 だがそんな矢先、レーナの居所を訪れたタリーは、潜んでいた男達によって暴行を受ける。男が静かに訊ねるのは、エミール・ブラントという人物の所在。聞いたこともない、と答えると、男は土産代わりにタリーの腕を折って立ち去っていった。

 激昂したタリーが酒場に赴きレーナを問い詰めると、彼女はエミールが自分の夫であることを告白する。だが、タリーは彼女からは夫は昔に死んだ、と聞かされていた。顔馴染みの米軍幹部のもとを訪れても、やはりエミールという人物は死んだ、という報告が残っている。それでもどうやらエミールという人物の存在が大金になるらしい、と睨んだタリーは、その所在も確認しないまま“彼”を売ろうと目論む……

 翌る朝、ポツダム会談の現場付近にある川で、タリーが射殺屍体となって発見された。殺害前夜、タリーが盗んだ身分証明書を利用してソ連領に入っていた記録が残っていたために、ガイズマーは事情聴取を受けることとなる。

 ガイズマーは薄々、タリーと自分との関係を訝しんでいた。ガイズマーは開戦以前にベルリンに滞在しており、現地で臨時記者として雇っていたのが他ならぬレーナだった。当時、彼女の夫が留守にしていたことも手伝って深い仲となったレーナを懐かしんで、敢えてベルリンでの仕事を選んだのだ。

 しかしある晩、盛り場でタリーと話しているのが、すっかり退廃的な所作を身に付けたレーナであったことに愕然とし、去ろうとするふたりを追い問い詰めようとしたガイズマーだったが、返り討ちに遭ってしまう。そして一夜明けて、取材のためにポツダムを訪れたガイズマーは、地元の人々と共にタリーの屍体を発見することとなる。

 いったいエミールという人物は何故追われているのか、果たして生きているのか死んでいるのか――そして、ガイズマーの愛した女は戦争を経て、どんな秘密を抱えてしまったのか? 彼女を救うべく奔走するガイズマーの前に、真実が静かに、激しくその姿を浮かび上がらせていく……

[感想]

 共同で製作会社“セクション・エイト”を設立し、オールスター・キャストによる『オーシャンズ』シリーズをはじめ、『インソムニア』『シリアナ』『グッドナイト&グッドラック』といったヒット作や話題作を繰り出してきたスティーヴン・ソダーバーグジョージ・クルーニーが新たに挑んだのは、1940年代の方法論の再現である。単純に白黒映像というだけなら前述の『グッドナイト〜』があり、2006年には『アンジェラ』『13/ザメッティ』といった作品が日本で公開されているくらいで、決して珍しくない。だが、撮影の手法まで往時をなぞっているのは本編ぐらいのものだろう。

 たとえば、高性能のピンマイクを使用していないために俳優たちの発声は明瞭になり、演技は必然的に今の標準よりも大袈裟になる。移動する車を撮す場面では、あとづけで合成するのではなくその場で移動する景色を背後のスクリーンに映して再現する。大戦終了間近のベルリンという設定のせいもあるが、基本的にすべてがセットを用いている点も特色だ。しかも、リアリティと同時にどこか書き割りのような作り物臭さを留めた美術には、だがそれ故にかつての映画が備えていた、観る者を異世界に導くような感覚を齎している。この、かつての映画が持っていた可能性を極限まで再現しようとした試み自体をまず高く評価したい。

 だが本編の優れた点は、単純に手法の再現に留まらず、プロットや脚本においても近年の主流から逸脱させていることだ。ナレーションを随所に施し語りのスピードアップを図り、異様に込み入った背景による深みを演出する。もともと原作が日本語版で文庫二分冊という長大なものであり、それを1時間40分という手頃な尺に収めるためには相当な取捨選択、翻案が必要であったのも事実だろうし、そのためにいささか説明が端折られて解りにくい部分も多々あるが、それが作品に今では珍しい類の渋みを齎している。ぼんやり観ていると理解できなくなるだろうが、そのぶんだけ向かい合う価値のある作品に仕上がっている。近年の解りやすさに重点を置いたような作品群とはきっちりと一線を画しているのだ。

 物語は、狡賢く立ち回ろうとして失敗した男から、愛した女の秘密に振り回されながらも彼女を守るべく奔走する男、そしてそうした男達の中心に立つ“ファム・ファタール”、という順で視点をリレーしていく。そうすることで、長大な原作の描写をうまく圧縮しつつ事実関係を整理することを試みたと思われる。惜しむらくは、それでも整理が充分に行き届かず、随所に唐突ですぐさま飲みこみがたい展開が見受けられることだが、しかしそれによって生じた雑然とした空気が、作品の古色蒼然たるムードをいっそう引き立てているという側面もある。

 そうして、危機また危機、の激しい展開の果てに辿り着くのは、あまりに苦く重厚感に満ちた結末。そこに教訓じみた言葉はなく、ただ淡々と去り行く彼らを遠景で捉え、画面に麗々しく記した“THE END”が印象的でかつ誇らしげな、矜持に富んだ秀作である。この創作精神、実は『グラインドハウス』にも通じるものがあるのだが、これほど印象が極端に異なるのも面白い。

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